ブラジル日本人移民ドキュメンタリー(Documentário – Imigração japonesa)

O documentário conta a história da colonização japonesa na região do Vale do Ribeira e Sudoeste Paulista, através de depoimentos de imigrantes japoneses e seus filhos. A chegada ao Brasil, as dificuldades iniciais em uma região isolada, o cultivo do arroz, da banana e do chá, a arquitetura diferenciada, os casamentos, a educação dos filhos, e as atividades culturais e esportivas são alguns dos temas abordados e ilustrados por uma vasta iconografia da época.

*ドキュメンタリーは日本人移民と子供達の証言から得た「リベイラ·バレー」と「南西部サンパウロ地区」での日本植民地化の物語です。

日本人移民開始

1905年にブラジルに赴任した杉村濬公使が、ブラジル政府の閣僚から日本人移民の実施を打診されたことから、その後移民の候補地の1つであるサンパウロ州を視察し早期の日本人移民の実施を本省に打診した。
その後杉村の報告書が大阪毎日新聞に掲載されたことから、日本政府だけでなく移民希望者の間で大きな反響を呼ぶこととなった。

過酷な待遇

コーヒー収穫を行う日本人移民「皇国殖民会社」が移民希望者を募る際に、ブラジルでの高待遇や高賃金をうたったために、移民の殆どは数年間の間コーヒー園などで契約労働者として働き、金を貯めて帰国するつもりであった。
しかし、先に移民して来たイタリア人同様、日本人国移民も奴隷解放令に伴う労働力不足を補うために導入されたもので、法律上の地位こそ自由市民であったもののその実生活は奴隷と大差ないものであった。
居住環境は悪く労働は過酷で、賃金の悪さなどの待遇が悪かったために、帰国のための貯金どころではなく借金が増える一方であった。
当時の農園主はこのようにして、小作人を土地に縛り付けた。
このため、日系移民の間で移民計画を「棄民」(日本国に棄てられた民)と揶揄する声がでた。
一部のコーヒー園を除くと、移民は奴隷同様に扱われた。
この様な待遇の悪さや賃金の悪さから、皇国殖民会社に対して帰国を申し出る者が出た他、ストライキや夜逃げも多く発生し、リオ・デ・ジャネイロ州などの近隣州やアルゼンチンへと渡る者もあらわれ、1909年に外務省の野田良治通訳官が調査した結果、笠戸丸で移民し、当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであったと報告されている。
日本人移民のストライキは少なかったが、夜逃げは多かった。

成功と定住化

日本人移民が運営するジャガイモ畑コーヒー農園から逃亡した多くの日本人移民は、結果的に自らの農地を取得し自作農となることを選択し、日本人移民同士で資金を出し合い共同で農地を取得し、「植民地」と呼ばれる集団入植地や農業組合を形成するようになり、1919年には、初の日系農業組合として、ミナスジェライス州に「日伯産業組合」が設立された。
ただし、多くの日系移民はサンパウロ州、パラナ州に居住しており、ミナスジェライス州には少ない。
この様な傾向はその後増加し「コチア産業組合」(サンパウロ)など、その後ブラジルの農業の振興に大きな役割を果たす農業組合が多数出来てゆくこととなる。

第二次世界大戦

ブラジルは、1939年9月に開戦した第二次世界大戦において当初は中立を守っていたものの、1941年12月に日本との間に開戦したアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領からの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦することを決定し、日本やイタリア、ドイツなどの枢軸国との国交を断絶した。
(なお、国交は断絶したものの、ブラジルが日本に宣戦布告したのは終戦直前の1945年6月であった)

アメリカにおいて日系人の強制収容が行われたが、ブラジルではそこまでの迫害は起こらなかった。

海岸地帯以外に住む大部分のコロニア(入植地、ブラジルの日本語では植民地と呼ぶ)にすむ日系移民(ブラジルで用いられる表現)たちは、開戦前の生活の維持が許された。
強制再配耕で辛酸をなめた移民がいた反面(ある意味では過酷な条件下での生存権が認められていた)、サンパウロ周辺では戦争景気で成功した日系移民も少なくなかった。

「勝ち組」と「負け組」の抗争

1944年に入り、日本をはじめとする枢軸国の戦況が悪化するにもかかわらず、これらの事実を「連合国として参戦しているブラジル政府によるプロパガンダ」として受け取らない者が、奥地の農民を中心に続出した。
さらに、1945年8月に日本が連合国に対して降伏したにもかかわらず、多くの日本人移民や日系ブラジル人がこれをデマとして信用せず、いわゆる「勝ち組」(日本は戦争に勝ったと考える人々)と「負け組」(日本は負けたと考える人々)の問題が発生した。

この状況を利用したガリ版刷りの偽ニュース売り、シンガポールの土地などの偽土地売り、日本への帰国船の切符、日本の土地を売る偽帰国事業、無効になった旧日本紙幣や軍票をうる偽札売りなどの、日本人成功者を狙った詐欺が横行した。

詐欺の首謀者たちは日本人であった。

日系人に対する高い評価

日系ブラジル人2世、3世は、その勤勉さと教育程度の高さから社会的地位が高い職業についているケースが多く、上記のような政界や官界、経済界の中枢のみならず、医師、弁護士、技師、地質学者、教員、芸術、文化、スポーツ等を含む広範な分野に進出し、ブラジルの発展に大きく貢献したと高く評されている。
なお、ラテンアメリカ諸国全体で見ても屈指の大学とされるブラジルの最高学府サンパウロ大学の学生のうち、かつては約15パーセントが日系ブラジル人の子弟であり、教員の約8パーセントが日系ブラジル人であった。
1パーセントに満たない日系人の人口比からみて、それがいかに高いものかがわかる。
また、ブラジル発見500周年記念行事の一環として、サンパウロ大学は2000年に初めて各学科の成績1位の卒業生を表彰したが、受賞者87人中、17人が日系人だった。
ただし、サンパウロ州としてみれば総人口に占める日系人の比率は2パーセント強であり、サンパウロ大学の本キャンパスが所在するサンパウロ市にいたっては総人口の5パーセント強は日系人であるという点、ブラジルの中でも日系人が偏在しているサンパウロ州周辺の南東部・南部地域が他の地域に比べ高等教育を受けやすい地域でもある。

また、上記のようにの高度経済成長期前後に多くの日本企業がブラジルに進出した際には、これらの日系ブラジル人がその先導役を務めただけでなく、日本人移民や日系ブラジル人がブラジルに作り上げた「日本人は勤勉」、「日本人は信用できる」という評価が、日本企業のブラジル進出と市場への浸透を容易にしたと評価されている。
日本人は不渡り手形をめったに出さないので、非日系ブラジル人は「Japones Garantido」(日本人は確実に信頼できる)とよび、小切手の受け取りを拒否しなかった。

差別

複数の人種や民族、文化的背景を持つ者が集まったコミュニティでは、多数派による無知や偏見、無理解、新参者いじめを背景にした少数派に対する差別は付き物だが、日本にルーツを持つ上、日本においては比較的好感度の高いブラジルから来たとは言え、日本に在住する日系ブラジル人も差別と無縁ではない。
むしろ日系人であるが故の差別がある。
多くの在日日系ブラジル人は何とか日本語を話すことはできるが、日本語の読み書き、特に漢字は容易ではない。
日本人の姿かたちをしているがゆえに無条件に日本人扱いされるが、日本人と同じ文化基盤がないと日本人に馬鹿にされる場合がある。
東京で起こった一例であるが、日系ブラジル人が町で道を尋ねると「看板が見えねーのかよ、そこに書いてあるじゃねーか」と罵倒されたケースがあった。

2006年4月、静岡県袋井市で日系ブラジル人3世の男性工員が新居用の土地を購入しようとしたところ、その地域の12世帯で作る長溝自治会がブラジル人の転入阻止を決定、不動産業者から土地売買の仲介を受けられなくなってしまった。
長溝自治会の住民は、「在日ブラジル人の犯罪が多いため何か起きたら怖い」と話していたという。
この男性は、特に犯罪歴はない普通の在日ブラジル人である。
この背景にはマスコミによる誇張された報道があり、「ブラジル人=犯罪者」とする風評ステレオタイプを作ってしまった。
在日ブラジル人の犯罪者は確かに存在するが、その率が在日日本人よりも大きいという統計的根拠はない。

日本人とのトラブル

愛知県豊田市保見団地では、平成2年の改正入管移民法施行の後日系ブラジル人が急増しゴミ出しルール違反、違法駐車、深夜の騒音をめぐる摩擦が深刻化した。
平成11年ブラジル人と右翼関係者のトラブルで大型街宣車が放火され、両者が睨み合う中で機動隊が出動する騒ぎになった。
しかし、このような事件は在日日系ブラジル人以外でも(主として日本人同士で)しばしば起こるものであり、とりわけブラジル人に特化した問題とは考えられない。
ブラジル人が絡んだということで一部のマスコミの注目を引いたケースではあるが、該当する右翼組織が平均的日本人の代表であるわけはなく、「日本人とのトラブル」と強調する意味はない。

帰化日本人のブラジル市民権

日本政府の立場から見れば、元ブラジル人で日本に帰化した市民は日本人であり、ブラジル人ではない。
しかしながら、ブラジル政府から見れば、ブラジル人は日本に帰化した後も生涯ブラジル人である。
ブラジルの市民権は消失しない。
従って、日本のパスポートでブラジルに入国してもブラジルの国民鑑識手帳を見せれば、ブラジル国内では一般のブラジル人である。
自国民であるから当然入国ビザは必要ない。

公益財団法人 海外日系人協会 :  http://www.jadesas.or.jp/about/index.html

写真は、私も南米妻と共に参加した日本国内の「南米コミュニティ」日系人の皆さんの誕生パーティの模様です。

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南米・コロンビア旅行は此方から~(私が自信をもってお勧め致します。)

*「未知の国 コロンビアからの便り」 : http://homepage3.nifty.com/cafetero/

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6 返信
  1. がんこじじい
    がんこじじい says:

    30歳の時ですから今から33年前に初めてブラジルに行きました。職場の研修でしたが、初めて会った日本人の自分を研修先の日系人が自宅に招待してくれました。お世辞にも豪華とは言えない家でしたが、そのもてなしの心に感動しました。
    また別の日にはサントス港の近くの豪邸に招待されたこともありました。
    マリンガという町の日系老人ホームでは日系の入所者の方々に当時の日本の状況を話して喜ばれたことを思い出します。
    それ以来、南米が好きになりまして今でも彼らとの友情が続いています。
    学校の目途が付きましたら高級食堂で南米談義いいですね!

    返信
  2. アジア素浪人
    アジア素浪人 says:

    メヒコ駐在中サンパウロ、ボリビア、アルゼンチンに良く出張し邦人社会え移民した人達から昔話を良く聞きました。
    共通するのは日本人の血に誇りを生きている事です。周囲に敬まれている事が理解できます。

    記事のサンパウロ大学に技術情報収集に相談行った時の教授も日系人でした。
    ポルトガル語はスペイン語の方言なので技術的な事だけ英語で確認すれば良いだけ楽でした。

    中南米の文化の中心地メヒコでも同様で日本人の教育意識の結果でしょう。
    半数メヒカンと日本人生徒の日墨学院はメヒコ最良の学校と言われます。
    当地の知人の奥様はこの学院卒、墨籍3世ですが心、所作振る舞いは現代日本女性と違い故母と同じです。
    富裕層の地域JJ Town(ジェウイッシュ・ジャパニーズ)では日本人による造園、手入れはステータスです。アジア素浪人を名乗ってますが中南米素浪人(浮浪人)になっていたかも知れません。

    多くの邦人が住む比国に何故良い日本文化が根付かず指導的人物が傑出せずKTVと悪評だけなのでしょうか。移住する日本人の質と志違いと理解するしかありません。

    昨日の予定が延び午後から12時間以上の鉄路の旅で久し振りに雲南近くの国境の町行きです。経済制裁解除を機に多くの日本人ビジネスマンが来てます。
    アジア最後の地とすぐに発展するでしょう。大好きな国民性です。英国と米国植民地地の違い、メイドの前の雇用主が英・米の違いと相通じるのでしょう。
    愚嫁に何故比でなく緬なのかと言われますが本当の事を言えない辛さです。

    返信
  3. FDSA
    FDSA says:

    がんこじじいさん。

    コメントをありがとうございました。
    33年間も南米のご友人様とのお付き合いが続いておられるのですね!
    素晴らしいことと存じます。
    南米のお話しを聞き、日本のお話しをしてあげると言う関係は新鮮無垢なな気持ちになります。
    マリンガの街の日系老人ホーム・・是非一度訪ねてみたいです。

    南米談義、いいですね!宜しくお願いを申し上げます!

    返信
  4. FDSA
    FDSA says:

    アジア素浪人さん。

    コメントをありがとうございました。
    メヒコご駐在中は、サンパウロ、ボリビア、アルゼンチンにご出張し移民された方々の昔話を聞く事が出来たと言うのは羨ましいご経験です。
    日本人の血に誇りを持って生きていらっしゃる・・このお言葉に感動を覚えます。

    「ポルトガル語はスペイン語の方言」・・そうだったのですか?
    お恥ずかしながら初めてしりました・・。

    メヒコにも憧れを抱いております小生でございます。
    所作振る舞いが現代日本女性と違い「故母」と同じとの事、益々好きな国になります。

    アジア素浪人を名乗ってますが中南米素浪人(浮浪人)になっていたかも知れません・・私も同じです。

    確かにフィリピンには良い日本文化が根付かず、KTVと悪評が多いです。
    色々とネガティブな理由が重なり合ってこうなってしまったのでしょうか?

    12時間以上の鉄路の旅ですか?風流で気持ち良さそうですね。
    子供の頃を想い出します。

    「米・英の違い」・・やはり顕著なのですね。
    「何故比でなく緬なのかと言われますが本当の事を言えない辛さです。」
    そのお気持ち良く解ります。(笑)

    返信
  5. アジア素浪人
    アジア素浪人 says:

    14時間の旅でしたが無事シンガポール系のホテル着、快適なホテルです。その分価格も、1泊こちらの人の月給です。コンパートも食事快適、時の流れを感じます。雲南に接しているので中国の何進戦略もあり中国語の看板で溢れホテルも中国が英語以上に通じます(広東・福建語ごちゃ混じりの私のマンダリンでは英語のほうが良いですが、笑)スタッフにバカにされたので戻りは鉄道より安い航空便にします。長距離バス車両はすべて日本製で事故も少ないらしいですが700kmの旅なので・・・・

    前からポテンシャルの高い国なので英米に追従せず日本が援助を続けてたらベトナムの先を行ったのに残念です。二輪車メーカーは既に大きな工場を作る予定と聞きます。
    ラングーンから230kmの距離の新首都に既に大商社事務所が開設されてます。

    航海時代は難所、今は船の墓場と呼ばれ廃船工場の地、チッタゴンに日系企業進出計画もあるようです。ODAで空港整備した影響でしょうが中国・アジアから南西アジアにシフトの風を感じます。

    週末には首都に戻り来週末に家族の基に戻りますが百聞は一見の言葉を痛感してます。

    PS:ポルトガル語はスペイン語の方言の前コメは表現不足で失礼しました。

    返信
  6. FDSA
    FDSA says:

    アジア素浪人さん。

    コメントをありがとうございました。
    お疲れ様でございます!14時間の陸路の旅ですか?
    700Km・・良いですね!
    日系上場企業も既に進出されているのですね。
    今後が非常に楽しみなところです。
    ODAでの空港整備はフィリピンも在りますが、ちゃっかりとPAL専用にされています・・全く・・。(笑)
    来週末お戻りですか?
    羨ましい程にご活躍されておられますね。
    活きた情報がお聞き出来て新鮮です!

    返信

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