「ポーランド」はなぜ親日か?「桜咲く国」がつないだ765人の尊い命!!!

ポーランド孤児を救った大日本!                                                                 

なぜポーランドは親日なのか?!                                                                                                   

それは…ポーランドシベリア難民の孤児を救ったのは日本!
ポーランドシベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれる真実。                                                                                            

ショパンやキューリー夫人の国ポーランド。ポーランドは長い伝統をもつ国でありながら、1795年ポーランド周辺の超大国が占領。ロシア、オーストリア、プロシア(後のドイツ)に三次にわたり分割され、1815年ロシアに編入。ポーランドが滅亡し、国名が一時消えた歴史がある。                                                                                                                     

18世紀末、ポーランドはロシアに支配されていた。ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂起を繰り返した。そのたびに失敗しては、捕らえられ、シベリアに「流刑囚」として流されて、強制労働をさせられていた。1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では、8万人もの流刑囚がシベリア送りとなり、家族と共に捕らえられ、政治犯としてシベリアに流された。恋人も後を追い、皆飢餓と寒さと伝染病と戦いながら暮らしていた。シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の流刑の地だった。そのためにシベリアには何十万人ものポーランド人がいたのである。そしてそこで多くの子供たちが生まれた。                                                                    

1917年、ロシア革命が勃発すると、シベリアのポーランド人たちは祖国独立の一助になろうとチューマ司令官のもとに2千名の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立し、ロシア提督・コルチャークを助けて赤軍と戦った。しかし、その試みは失敗し、ポーランド人部隊はウラジオストックに追い込まれた。                                                                                                          

この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、日本であった。日本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、米英仏などと共にシベリアに出兵していたのである。                                                                                   

第一次大戦後の1918年11月、ポーランドは100年以上を経て、ようやく独立を果たした。しかし、まもなくロシアでは革命が起こり、革命軍とロシア皇帝派の戦いはやがてシベリア全土を覆いつくし、その混乱は、当時10万人近くいたシベリアのポーランド人たちをも巻き込んでいった。ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーランド人がおり、多くの人達が殺されていく中で、親とはぐれた子供たちが数多くシベリアに残された。                                                                

赤軍(共産党)は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そうとした。ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で後に日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は、当時の状況をこう語っている。                                                                                                                        

・・・街には、飢えた子どもがあふれていましたね。その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、「ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、せがむのです。日本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、キャラメルをもらったことがあります。孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている子どももいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした。・・・                                                                         

ウラジオストック在住のポーランド人有志たちは、我々はこのままシベリアで死んでもいいが、せめて子供たちだけでも祖国ポーランドへ帰してやろうと、鉄道技師の夫と共にウラジオストックに住んでいたアンナ・ビエルケビッチさんが、1919年(大正八年)9月に「ポーランド孤児救済委員会」を組織した。しかし、その後、ポーランドとソ連との戦争が始まり、孤児たちを帰還させることが不可能となった。                                                                                                                          

会長となったアンナ・ビエルケビッチさんは、輸送の援助を大国であるヨーロッパやアメリカに求めた。がしかし、欧米諸国は、その要請に応えてはくれなかった。民族は異なるが、もしやと思い、同じ大国である中国上海の中国赤十字社を訪ね救済要請したが、これも断られ、思い叶わずウラジオストックに戻った。                                                                                                        

万策つき傷心のビエルケビッチさんは、再び子供たちを救うにはどうしたら良いかと、委員会で皆の意見を求めた。一人の委員が、小国ではあるが日本に救援を頼んでは、と提案したが、年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(はりつけ)にしたような国が、他の国の子供たちを助けてくれるだろうか、と反対した。そこに副会長の若い医師ヤクブケビッチ副会長が手をあげて発言を求めた。                                                                       

・・・僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいったポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はいませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきたチューマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍じゃありませんか。・・・                                                                   

こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、陸軍や外務省にポーランド孤児救済を依頼する決定がなされた。                                                                        

絶望的な状況の中で、救済委員会会長のビエルキエヴィッチさんは1920年6月に船を頼み込んで福井県の敦賀に着き、東京に行って外務省に嘆願した。                                                                                                                     

彼女の嘆願書抜粋。                                                                                                                 

・・・「われわれは祖国から離れ離れになり、いまだ何の助けも得られません。このまま冬が来ると、子供達の命が奪われることは明らかです。子供を花のように愛する日本が、彼らの命を戦争の不幸から救ってくださるよう、私は切に願っています」・・・                                                                      

打診された外務省は、直ちに日本赤十字社にかけあった。日赤は、ポーランドへ帰還させる方策を決定した。救済委員会が日本の外務省に打診後わずか17日目のことだった。1920年というと、ベルサイユ条約でポーランドが出来たばかりで、まだお互いに大使館もない状態で、しかもこの救済の要請は、ポーランドの政府からのものではなく、ポーランドの一民間組織からの要請である。要請後、わずか17日後にこの要請を受け入れることに決断したことは、今考えても驚くべき即断といえる。                                                                                    

まず、日本赤十字社が現地に向かうことになった。現地には、ソ連赤軍(共産党)がおり、大変に危険な状態だったが、たまたま日本軍がシベリア出兵のために待機中だったので、日本軍にも協力を要請した。そこで、日本の兵士達が「私達がやりましょう」と、どんどん赤軍(共産党)支配のシベリアの原野に入っては、小さな子供達を一人二人と抱えてウラジオストックに戻ってきた。捜索は二年間続けられた。                                                                                                                          

救済委員会も、一人でも多くのポーランド人孤児を救おうと、あちこちの避難所を探し回った。                                                                                 

ビルケビッチさんは語る。                                                                                                              

・・・こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいました。ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のようにして、その家庭をたずねました。父親を亡くした家庭では、「せめて子どもだけでも、助け出してください」と母親たちが、泣いてわたしたちにたのむのでした。                                                                                                                        

しかし、こうして「シベリアで子どもたちを集められたのは、日本軍がいる町だけだった。日本軍の助けなしには、なにもできなかった」と、ビルケビッチさんは回想する。                                                                                                            

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌1921年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに1922年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来日した。                                                                                                 

東京には、2歳から16歳までの子供375人、大阪には1歳から15歳までの子供390人が来日した。孤児たちがシベリアから持ってきた荷物の中に、食パンの頭と耳がいっぱい詰まった袋があった。シベリアでのひもじい体験から、万一日本で食べるものがなかったときのために、多くの孤児がこっそり持ち込んでいたのである。                                                                                                 

765名の孤児たちが日本に招き入れられ、二年間にわたって治療、療育が施された。習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけるのがよいと考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招いて配慮した。                                                               

孤児たちのことが一般に知られるようになると、国内では治療や理髪、慰安会、救援金、慰問品の寄贈などのボランティアの申し入れが殺到した。                                                                                                                        

到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を絶たなかった。                                                                  

・・・ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれたが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったこと。と孤児たちは、特に印象に残っていることとして述懐している。                                                                 

「体中皮膚病にかかり白い布に包まれてベッドに横たわる私に、看護婦さんがキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました」とかつての孤児アントニーナ・リーローさんも、語っている。                                                                       

わが国のポーランド孤児たちへの治療と療育は、手厚く行われ、中には、腸チフスの子供を看護し、自らも感染して殉職した看護婦もいた。                                                                                                                          

1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児たちを親しく接見され、3歳の女の子、ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチをいだき、その頭を幾度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。                                                                                                                          

うちひしがれた三歳の女の子を抱きしめられた時、孤児たちは一斉に号泣したという。                                                                                     

その感激の涙が立ち戻る力となったと当時の子供たちは今に伝えている。                                                                                           

このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。                                                                 

日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。                                                                                                                 

保護した765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドに、一人も不幸にせずに、保護した765名全員を送り届けた。                                                                                         

「2年を過ごした日本は天国のような場所」であった、と孤児たちは後に述懐している。                                                                                    

横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がった。見送る医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしなかった。別れを惜しみながらも、孤児たちは精一杯の感謝の気持ちをこめて波止場に並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた、「君が代」を歌った。                                                                 

神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、船が見えなくなるまで手を振っていたと伝えられている。                                                                                                    

子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。                                                                            

日本船に乗せられ祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちは、養護施設に保護され、それを祝うために首相や大統領までが駆けつけた。この施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国旗を掲げ「君が代」を合唱したと言われている。                                                                             

シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が日本に届けられている。そのひとつ、救済以来を日本にするように提案した、当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べている。                                                                                                    

・・・日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。                                                                                                         

・・・われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。                                                                                                

・・・ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。                                                                            

・・・ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい。                                                                                                                      

こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。「極東青年会」はポーランドと日本の親睦を主な目的とし、組織の活動を通して日本文化のすばらしさをポーランドに紹介していった。                                                                                                     

1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。                                                                                            

そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。                                                                                                        

ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。                                                                                    

急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。                                                                             

イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。                                                                                                                   

この後も日本大使館は、イエジキ部隊を幾度となく庇護した。                                                                                                

日本国民よ!唯心ポーランドが一世紀にわたり語り継いだ歴史に学べ!                                                                                           

1995年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりついた。                                                                                                  

私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。
そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。
しかしもうそれは叶えられません。                                                                                                            

しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません。と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今まで肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。                                                                                            

同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せあった。                                                                

「このお札のお陰で長生きできた」というこの聖母マリアの像が描かれたトランプの大きさのお守り札は、時を経てもうボロボロになっていたが、裏面に印刷されたお祈りの日本語が、かすかに残っていた。                                                                                             

前述のように後にポーランド大使となる兵藤長雄は、外務省入省の後、1961年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、その時の先生がグラドコフスキという元ポーランド陸軍将校であった。グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も自宅に呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。                                                                                                          

なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと不思議に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。父親はロシアに徴集されて日露戦争に従軍したが、捕虜となって数ヶ月を日本で過ごしたのだった。そこで周囲の見知らぬ日本人から親切にもてなされ、深い感銘を受けた。                                                                                                                        

父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、息子にその時の話を詳しく聞かせては「お前も日本人に出会ったらできるだけ親切にして恩返しをして欲しい」と口癖のように話していたという。「父親が受けた日本人からの親切を、今、貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と先生は若き兵藤に語った。                                                                                                     

時は流れて1993年ポーランド大使となった兵藤長雄は、ポーランド永住の日本人松本昭男から初めてこの話を聞き、長い月日が流れてはいるが、まだ生きている方がおられるのではないか、そして何とかしてその孤児の方々とお会いできないかと、松本さんと相談し探した結果、存命者が判明し、前述の招待となった。                                                                                                        

あれから75年の歳月が流れ、平成七年(1995)、わが国の阪神地域を大地震が襲った。このとき、いち早く救援活動をしてくれた国が、ポーランドだった。さらには、震災で孤児になった日本の子供たち30人ずつ2回に分けて、今度はポーランドへ招待した。                                                                  

被災孤児の一人の男の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、世話をした一人のポーランド婦人が理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになってしまったので、焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、片時も手放さないのだという。この婦人は不憫で涙が止まらなかった、と伝えている。                                                                                                

第2回目の被災児がポーランドヘ招待されたのは1996年の夏であった。3週間招待されていろいろなところを案内され歓待された。                                                                

震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」と無理をおして、やって来たのだ。日本の被災孤児たちに、自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流してこれで恩返しができたと語った。終わりに4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。                                                                                                                          

阪神淡路大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた中心人物は、東京のポーランド大使館に勤務していた物理学者で外交官、スタニスワフ・フィリペック氏である。フィリペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授だったが、ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に留学した経験もあった。                                                                                                        

フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下のポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、氏が3歳の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。その後、氏はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。                                                                                                                       

お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)をやりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこうにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつけたんだもの。ジジュツのせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカはサムライの国でね、サムライ魂を持っているんだ。                                                                

小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、私たちポーランド人の希望になったんだ。わたしたちもヤポンスカのように、ロシアや、ドイツや、オーストリアを負かして追い払い、自由をとり返して、独立できると信ずることができた。そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーランドは独立できたんだよ。                                                                                                           

おばあさんは幼いフィリペック氏に、ヤポンスカがポーランド人捕虜を親切に扱ったことや、大勢のポーランド孤児をシベリアから救出したことを語って聞かせたという。これが機縁となって、氏は日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意したという。                                                                     

平成11(1999)年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団は孤児だったヘンリク・サドスキさん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。                                                                                               

・・・20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてくれたことを忘れません。・・・(合唱団は)私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう。・・・                                                                               

サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡して」と救出当時の写真を託した。「孤児収容所を慰問した皇后陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」と話したという。                                                                                              

平成14(2002)年七月、天皇、皇后両陛下は初めて中・東欧四カ国を訪問された。                                                                                    

・・・クワシニエフスキ大統領が、日本とポーランドの交流の歴史に触れ、ロシア革命当時、シベリアに残された孤児の救出について改めて感謝した。・・・平成14(2002)年7月10日毎日新聞報道                                                                                              

・・・第一次世界大戦(1914~18年)やロシア革命(17年)の時に、ロシア支配に抵抗してポーランドからシベリアに追放され、日本によって救出されたポーランド人の元孤児3人が12日、ワルシャワの日本大使公邸であったレセプションで天皇、皇后両陛下と初めて面会した。元孤児の一人は面会後の会見で「私が今あるのは日本の援助のおかげ。両陛下に会えて感激している」と心情を話した。・・・平成14(2002)年7月13日毎日新聞報道                                                                                                   

皇后陛下の誕生日・平成14(2002)年10月20日に放映「スーパー・テレビ」では、両陛下とその老齢になった孤児達が対面する感動的な場面が映し出されていた。                                                                                                               

病院に大正天皇の后、貞明皇后がお見舞いに来られ、小さかった彼女を抱いて励ましてくれた記憶のある元孤児の一人、86歳のアントニナ・リーロさんは、美智子皇后の手をずっと握りしめていた・・・。                               
80余年の時空を超えて、かすかに覚えている貞明皇后の手の感触、胸のぬくもりを確かめているかのようで、時間が止まったかのように感じられた。                                                                                                                    

・・・時が流れ、年老いた元孤児は静かに「君が代」の一節をくちずさんだ。                                                                                         

ピオ11世、パウロ六世、パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世と、一貫するローマ法王                                                                                      

戦前、共産の正体を狂惨と喝破したローマ法王ピオ11世は、反共戦争(日中戦争・支那事変・日華事変。1937年7月7日)が始まった年の10月に、全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、次のようなメッセージを出している。「日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよ」と。当時、共産ではなく狂惨(凶産)と喝破していたのは、全世界のカトリック信徒と日本だけであった。                                                                                     

昭和五十(1975)年にヴァチカンを訪れた仏教徒の仲田順和は、時のローマ法王・パウロ六世に、先代座主の遺志をつぎ、「戦犯とされた人々」の鎮魂と慰霊のために宗教の違いを超えて日本人殉難者のためのミサを、と願い出た。パウロ六世の快諾を得て帰国したが、法王の訃報に接した。後継のパウロ一世も急逝、異教徒の願いは空しく閉ざされたと思われた。                                                                                  

がしかし、五年後の昭和五十五(1980)年四月、ヨハネ・パウロ二世から「五年前の約束を果たしたい」との親書が届けられた。ローマ法王庁は、ピオ11世のメッセージと異教徒の願いを忘れてはいなかったのである。                                                                                     

同年の五月二十一日、法王パウロ二世のもと昭和殉難者のための荘厳なミサがヴァチカンでとり行われ、連合国の手で「戦犯」として裁かれた、ABC級すべての日本人昭和の殉難者1068柱の霊が祀られた。ピオ11世のメッセージを、貫いたのである。                                                                      

昭和56年(1981)2月23日~26日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はローマ法王として初めて来日した。この時、法王は慣例を破って皇居に天皇陛下を訪ねられた(2月24日11時皇居で天皇と会見。14時法王庁大使館で鈴木善行首相と会見)。法王が外国を訪問してその国の元首や首相に会う時は、その国の方々が法王を訪ねて会いに来るのが慣例となっており、法王の皇居訪問は前例のないことなので、問題となった。その時法王は、一身を捨ててマッカーサー元帥の前に立たれた天皇をたたえての訪問であることを、そのキリスト精神をたたえての訪問であることを、皆に説いた。皆は、その一言で納得した。                                                                                            

ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、ポーランド人カロル・ヴォイティワ(本名)である。                                                                                    

ドイツとソ連に国は分割され、半世紀にわたる共産党支配。そして1989年ポーランド民主化。苦難の一世紀ポーランドは、祖父母、親、子と語り継いだ。日本は語り継いだか!・・・                                                                                                       

資源無き、無い無い尽くしの小国日本、物づくりを国の基幹産業としなければ成り立たない国家なのだ。弱肉強食の時代、子孫のために団結し、開国以来、物づくり人づくりを、国是としてはげんだ。                                                                                                

戦後、貿易は自由化され、資源を輸入し、物づくりにいそしみ海外に販売した。諸外国にどんどん売れ、抵抗無く復興の一歩を踏み出し、驚異の経済発展を遂げ現在に至っている。                                                                                                         

どうして抵抗無くすぐ売れたのだろうか。物を売ってみれば誰でも分かることだが、安くても、どんなに良いものでも、すぐには売れない、時間がかかるのだ。買う人は物を使っていないので、良し悪しが分からないからだ。これは買う人の道理である。何で買うか、物が分からないので、売り手を信用して買うのだ。売り手が信用を得るまでには時間を要する。売り始めのきっかけ、売り手の信頼づくりに皆苦労するのだ。                                                                                                                      

史上初のノーベル文学贋賞受賞者大江などが罵倒するように、日本が世界の侵略者日本、日本人が世界の極悪人日本人だったら買っただろうか、言わずもがなである。                                                                                                               

抵抗無く売れたと言うことは、先人が開国以来築いて来た信頼が、敗戦で文無しの弱者となっても、残ったことを物語っているのだ。大江などが罵倒するような極悪人であれば、反動しか生まれず、意地でも買わない。これが、世の習いだ。                                                                              

安いから技術が良いから、物が売れたのだけではない、先人が他国に成した諸々の思いを、時代の波風を越え、一世紀にも渡り語り継いでくれた他国の深い思いがあればこそであることを、忘れては成らない。先人は他国に行動を、日本人の心を伝えていたのだ。この心を、国敗れて文無しの弱者になっても、皆信頼した。この創りあげた信頼があるからこそ、敗戦となった弱者、文無し日本からでも、物を買ったのだ。先人が子孫に残したもの、それが戦後復興の礎石となり奇跡を果たしたのだ。                                                                                      

海外で先人の恩恵を受け繁栄しているトヨタ、ホンダ、SONY、東芝、シャープ、ニコン、キャノンなどの世界企業は特に、先人の成した真実の歴史を学ぶ義務がある。そして先人の成したものを受け継ぎ、子孫のため新しい歴史を成す責任がある。これは資源なき小国日本の国是だ。                                                                                                                       

言わば世界企業のオコボレで、国内業界トップとなった読売新聞、己の実力と過信し、得意の絶頂で先人冒涜の雄たけびを上げているナベツネ。所詮オコボレ成金虚業家、さらけ出した姿は、醜く浅ましい。先人後藤新平は、元部下の正力松太郎が読売新聞の経営を創めた時、自宅を担保に資金を調達、何も言わずに貸した。この資金は、生前には返せず、12年後の1941年郷里に寄付され、日本初の公民館が建設された。この先人や、物造りで外貨を稼ぎ、日本隆盛を成した人々のおかげで今の読売が在るのだ。どの国の基幹も製造業だ。食べれれば生きていけるからだ。非製造業の報道屋が居なくても、別に困ることは無い。似非報道屋は百害あって一利なし。                                                                         

先人の遺産を忘れ、先人冒涜の巣窟と化したNHK(後藤新平は、東京放送局、のちのNHK、初代総裁である)。先人の遺産を忘れ己ひとりの実力と過信し、奢った結果、公務員の堕落やバブルの崩壊やSONYの凋落や三菱の淪落となった。今がなぜあるか忘れたからだ。結果は点ではない、線だ。ヤマハのピアノ製作所買収にしても、その国の歴史を学び配慮すべきだ。償いを子孫に残してはいけない。                                                                  

後藤新平は、昭和4(1929)年、岡山に向かう列車内で脳溢血で倒れ、4月13日京都の病院で死去、72歳。その日の言葉。「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」                                                                                

無い無い尽くしの島国日本、人づくり、物づくりを怠れば、いつの世でも即刻存亡の危機であるのは明白である。ポーランド一世紀に渡る思いが語るように、先人に学び、我々も歴史をなし、ノーベル鴈賞大江やナベツネのように歴史を点で語るのではなく線で、子孫に語り継ぐ責任がある。                                                                                                                     

戦には物量の差で負けた。しかし、世界の大国に虐げられし同胞は皆、インパール作戦や特攻玉砕という史上比類なき戦いを、たった一国で繰り広げた小国日本の心を見た。支配者も凄まじき戦いの心を見た。虐げられし世界の同胞は皆立ち上がり、支配者は、これまでのように簡単に安易に征服は不可能と知り去った。                                                                                                        

戦わざれば、大国の侵略者(米英蘭中ソ豪)に征服され、分割され、日本の国名も日の丸も失い虐げられ、極貧生活に喘いでいるか、はたまた今頃は、独立のための更に過酷な戦いを国内で繰り広げ、全土が焦土と化していたかもしれない。戦争をしていなければ、バラ色の日本になったとは言えず、更に地獄だったかもしれない。最悪はWW3原爆戦争で、人類が消滅していたかもしれない。人類は、WW2の多大な犠牲者により、原爆、平等、共存共栄を学んだ。学んだから今がある。物事には全て禍福がある。                                                                              

日本は西洋諸国の植民地を解放した罪によって罰せられたが、わずか15年後の昭和35年(1960年)に国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。南北アメリカにはならなかったのだ。                                                                  

子孫のために命をかけ、開闢以来の本能、弱肉強食を破壊し、新秩序、大東亜戦争目的の、平等と共存共栄、互恵を創造したのが先人である。                                                                                                                          

ポーランド(キリスト教、白人)トルコ(イスラム教、有色人・エルトゥールル号遭難者救助一世紀にわたり語り継がれたトルコの思い)日本(仏教、有色人)、人種も宗教も歴史も異なる国家が、弱肉強食の波浪の後にも互恵を成している。これは、人種も宗教も仮装に過ぎず、命あるものの命の共振さえ有れば、平和を成すことが出来得ることを物語っている。先人は成した。子孫は資源無き小国日本、先人の成したこと、命の共振を忘れてはならない。そしてこれは子孫の道標である。                                                                                         

恨みとパンのみに生きる、唯物凶産中朝韓罪日とは、根源的に異なる。真逆の極が、日本人唯心である!                                                                             

津軽三味線や能、歌舞伎等、今に残る数多の芸は、おしなべて苦界に落ち、苦界より生じた芸である。がしかしそこには、恨みつらみなど、微塵も無い!まさに禍福昇華、唯心の極みがあるのみである。だから、時代を越えても、人種宗教言葉を超えて、共振するのだ。                                                                

今の平和を築いた先人を語ろう。歴史の点と点を線でたどり、原点に帰り、子孫に真実の先人の歴史を語り継ごう。歴史のつまみ食い不可。歴史は点では語れない。                                                                                                              

ポーランド孤児を救った大日本!21920年ポーランドのシベリア孤児と日本の関係

                                                                                                         

我々は恩を忘れない国民である!                                                                                                   

シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、“ポーランド国民の感激、我らは日本の恩を忘れない”と題した礼状の中で次のように述べている。                                                             

「日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本は我がポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、我が不運なるポーランドの児童に斯くも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々はその恩を忘れることはない。我々の子供たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、さては指輪までもポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではなかった、しばしばあった。ポーランド国民もまた高尚な国民であり、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童の為に尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。ここにポーランド国民すべては日本に対して、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い恩、最も温かい友情を持っていることをお伝えしたい!!」                                                                  

ポーランドからの令状                                                                        

(平沼赳夫氏より。)



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2 返信
  1. パパアキー
    パパアキー says:

    お久しぶりです、
    本日の記事、久しぶりに読んでいて感動の涙が流れました、
    「この国の国民でよかった」と思います、そして日本の先人にありがとうと言いたい、当時の日本はけっして裕福な国ではなかったと思います、しかし困っている人を見て見ぬふりが出来ない、日本人ってやっぱりいいな~、キムチの国や餃子の国には、逆立ちをしてもマネができないでしょう、日本万歳・日本人万歳。

    返信
  2. fdsa
    fdsa says:

    パパアキーさん。

    コメントをありがとうございました。
    先人様方のこう言った素晴らしい事実は多くありますが、中々表に出てきていません。
    私達は此の様な歴史をありのままに子孫達に伝えていかなければなりませんね。
    「自虐史観」で洗脳しようとする反日マスコミと支那、朝鮮、韓国の異様さには吐き気を感じますが、日本を尊敬してくれている国々も多いのは事実ですから。
    子孫達が皆、「日本人で良かった、日本は素晴らしい国」と自信をもって言える様に、埋もれている先人様方の残して下さった素晴らしい歴史事実を伝えていきたいと思っています。
    「金を残して此の世を去る者は(下)、仕事を残して去る者は(中)、人を残して去る者は(上)!」・・・正しくその通りだと思います。

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