パラオの恋/芸者久松の玉砕!

パラオのジャンヌダルクと呼ばれた日本人女性がいます。
 
大東亜戦争が開戦となる前、パラオは、平和な島でした。
日本は、パラオに南洋庁を起き、パラオの人々に高い教育を与え、青い海、白い砂浜は、人々の心をなごませていました。
 
そのパラオのコロール島に、17歳の芸者の久松(ひさまつ)がやってきたのは昭和15年のことでした。
久松の本名は、梅川セツといいます。
もともと那須の生まれであったようです。
たいへんな美人で、歌も踊りも達者、パラオ・コロールの料亭「鶴の家」で、たちまち人気芸者となりました。
 
そんな久松が、ある日、独立歩兵第346大隊の大隊長を勤める引野通広(ひきのみちひろ)中佐に出会いました。
中佐は鳥取県出身で、陸軍士官学校26期で、このとき49歳です。
やさしくておもいやりがある中佐に、久松は、まるで大きな父親のような存在を感じたようです。
彼女は、いつしか引野中佐を心に想うようになりました。
 
その引野中佐が、ペリュリュー島への転進を命ぜられて赴任したのは、昭和19年7月のことです。
このとき、引野中佐53歳、久松は21歳になっていました。
 
結ばれようなどと、久松も思ってなどいません。
米軍との大きな戦闘になる。
激戦となれば、ペリュリューに赴任した引野中佐は、生きては帰って来れません。
小さな島の中でのことです。情報はすぐに伝わります。
そのことは芸者の久松にだってはっきりとわかることでした。
 
引野中佐がコロールを去ったあと、久松は、長い黒髪をバッサリと切りました。坊主頭です。
そして、どこから入手したものか帝国陸軍の軍服を着ました。
おかみさんに別れを告げ、単身、ペリュリューへと向かいました。
 
ペリュリューに着いたとき、港の警護員の中に、たまたま引野中佐の副官だった高村正夫少尉がいました。
少尉は、降りて来る乗客の中に久松の姿を見つけました。
「帰れ!ここはおまえの来るところではない!」
けれど久松は応じません。
高村少尉は久松を殴りました。
久松はよろめきました。
けれどすぐに立ち上がり、高村少尉の眼を、じっとみつめたそうです。
 
「軍属としてまいりました梅川セツと申します。よろしくお願いします。」
久松は、少尉に向かって敬礼をしました。
高村少尉は、それでも怒っていました。
「馬鹿な、こんなことがあっていいものか」
 
ペリュリューの千人壕にはいってきた久松を見て引野中佐も驚きました。
「コロールに帰れ!ここは君の来るところではない!」
引野中佐は、部下に命じて久松を帰そうとしました。
 
港に強制的に連れて来られた久松でしたが、ところがこのときすで、最後の船が出て行ってしまった後でした。
米軍の包囲の中で、もはや輸送船の往来は、全く不可能な状況となってしまっていたのです。
 
久松の壕の中での生活が始まりました。
なにしろ560人もの隊員が暮らす壕です。
壕内は暗く、台所も不衛生、洗濯をするにも、水が不足している。閉じ込められた560人の排泄物の臭いは鼻をつきました。
久松は、ただひとりの女手として、壕内の掃除や片付けに献身しました。
 
昭和19年9月15日、島を守る1万1000名の日本軍の前に、米軍があらわれました。
総勢6万9740人、火力は日本軍守備隊の百倍です。
米軍は、まず空から島全体を焼夷弾で焼き払いました。
次には蟻の這い出る隙間もないほどの艦砲射撃を加えてきました。
南海の楽園のペリュリュー島は、まるで不毛な月面のような緑のないクレーターだらけの島になってしまいました。
 
けれど、壕内に潜む日本軍は耐えぬきました。
彼らの爆撃に、一兵の損傷も出しませんでした。
 
米軍は、上陸用艇で第一海兵師団2万4234人を、島に上陸させました。
そこに中川州男(なかがわくにお)中将率いる日本軍守備隊は、猛攻を加えました。
上陸部隊との海岸線の攻防で、日本側は米軍第一海兵師団(2万4千人)に対して損失60%超の損害を与えました。
この損害は、米軍で第一海兵師団「全滅判定」を与えるという凄まじいものでした。
百倍の火力を持つ敵に、まさに日本守備隊天晴れという他ありません。
その戦いの現場は、米兵の血で真っ赤に染まり、いまそこはオレンジビーチという名がついています。
 
危機感を持った米軍は、アンガウル島にいた第81歩兵師団(1万9千人)を呼び戻しました。
そして日本側の攻撃拠点を艦砲射撃等で粉砕しながら、徐々に日本の守備隊を圧迫しました。
 
島の北側でも、果敢な戦いが行われました。
けれど引野中将以下の大隊は、ツツジ陣地を失ない、中ノ台で体制を立て直そうとしますが果たせず、その頃、ついに水戸山人事の塹壕にまで追いつめられていました。
 
水戸山を米軍が包囲する。
すでに北地区と、中川中将の司令部とは、完全に遮断されています。
 
矢弾尽き、ついに引野中佐は、斬り込み隊を実施しました。
けれど米軍は、海からも山からも集中砲火を浴びせて来る。
大隊の多くが死に、壕内は死臭が満ち、糞尿にまみれ、じとじとと湿った日の届かない劣悪な環境の壕内には、重症患者があふれて足の踏み場もなくなりました。
 
けれどそんな壕内では、不思議と明るい笑い声があふれていたそうです。
とかく映画などでは、こうした状況の壕内を、ただ暗く、兵隊さんたちのうめき声ばかりがあふれていたように描くものが多いのですが、辛いときであればあるほど、互いが互いを思いやり、やさしくなって笑顔があふれるのが、日本人の特徴です。
煤と埃と泥に汚れ、何日も風呂にはいっていない汚れた体に重傷を負っていましたが、みんな笑顔でいました。
 
そんな兵隊さんたちの中で、久松は献身的にみんなのために尽くしました。
ときに看護婦となり、ときに洗濯婦となり、久松の笑顔もまた、みんなの希望でした。
そんな久松に、兵隊さんたちはおもしろがって銃の扱い方や撃ち方を教えてくれました。
久松も軍服を着ていましたが、小柄な久松の軍服はブカブカです。
軍靴もサイズがあわず、ですから久松は地下足袋をはいて、その上から軍靴をはいていました。
そんな小柄な久松が銃を持つと、まるで銃が歩いているみたいです。
「けどね、久松ちゃんはこんなもの撃たなくたっていいんだよ。俺たちが最後まで久ちゃんを守るんだから」
 
9月28日の朝、引野中佐は、戦闘帽をかぶり直すと、「出撃、用意!」と号令をかけました。
前日には、米軍は水戸山の山頂に、米軍旗を掲げています。
その山を奪還する。
いつにもまして、28日の戦いは激しい戦いとなりました。
戦いの中で、敵の銃弾が引野中佐の頭部に命中しました。
幸い鉄兜のおかげで、即死は免れたものの、頭部を損傷し血まみれです。
隊員たちは、まるで御神輿を担ぐように引野中佐を担ぎ、壕内に戻ってきました。
 
駆け寄った久松を見た引野中佐は、久松にやさしい笑顔を向けようとしたようです。
けれどその笑顔は途中で止まり、中佐はこときれてしまいました。
久松の腕の中で、引野中佐が、だんだん冷たくなって行く。
みんな泣いていました。
 
不思議なことに、久松は泣きませんでした。
ただじっと、死んだ引野中佐の顔をみつめていました。
久松の心の中で、何かが弾けました。
 
「貴方の仇(かたき)を討つわね」
久松は、膝の上の引野中佐をそっと寝かせました。
立ち上がった久松の手には、重い機銃が握られていました。
 
壕を出て行く久松に、そのとき大隊のみんなは「いったい何を始めるつもりだろう」と思ったそうです。
久松は、後ろもふりかえりませんでした。
壕の外は、激戦の炎につつまれています。
そのなかで久松は、機関銃を機銃座に据えました。
そしていまにも山を登って来る米兵に向けて、銃を撃ちはじめたのです。
 
みるみるうちに、米兵が倒れていきます。
米軍は、そのたったひとりの銃座を攻略するために、三方から兵を迫らせました。
けれど、銃座の日本兵は、まるで自分の姿を隠そうともせず、ただ敵を見つけては撃ってきます。
狙いも正確でした。
米兵の損耗は、一層はげしくなります。
このときの米軍の損傷のはっきりした数はわかりません。
死者16人という説あり、80人以上という説もあります。
はっきりといえることは、米軍にとって、この機銃を発射する小柄な日本兵がものすごい脅威となったということです。
 
「なんと勇敢な兵だろう」
やむなく米軍は、三方からの攻撃にあわせ、戦車による援護の砲撃を加えながら、銃座の後方に狙撃兵を向かわせました。
狙撃兵は、背後にまわり、撃っている日本兵の後頭部を狙って引き金をひきました。
 
弾を受けた久松は、そのまま前のめりになって倒れ、絶命しました。
銃座は沈黙しました。
周囲にいた米兵が、駆け寄りました。
 
銃弾が人体にあたると、弾の入り口には、小さな穴が空きます。
けれどその弾は、体内で攪乱し、体外に射出するときには、射出口を大きく破壊します。
弾は久松の顔を粉々に砕いていました。
 
銃座にやってきた米兵たちは、その米兵と比べて小柄な日本兵の中でも、いっそう小柄な日本兵をみて、「たったひとりで戦うとは、敵ながらたいしたものだ」と口々にいいながら、その倒れた兵を見下ろしました。
「どんな奴なんだろう」
彼らはその日本兵の階級章を見ようと、遺体をひっくり返しました。
 
うつむいて息絶えていたその体が表がえしにされたとき、汚れた軍服の下に、真っ白な肌が見えました。
「うん?これは?」
驚いた彼らが軍服をちぎってみると、そこから豊かな乳房があらわれました。
この勇敢な兵士が女性だったことに、米兵たちは驚きました。
「どうしてこんなところに女がいるんだ?」
「まさにジャンヌダルクだ!」
 
それからしばらくして、久松が死んだ銃座のあったところに、白いペンキで塗られた十字架が建てられました。
その十字架は、朝日を浴びると不思議な光を放ったそうです。
なぜかそこは、神聖な場所のような空気が漂っていたと伝えられています。
 
 
実は、この物語は、今年6月に出版された新井恵美子さんの「「パラオの恋/芸者久松の玉砕」という本をもとに書かせていただきました。
本を読み終えた時、涙でぐしゃぐしゃになってしまいました。
そしていくつかのことを学ばせていただきました。
 
パラオの戦いは、大東亜戦争後期の昭和19年9月から11月まで行われた戦いで、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将以下、1万695名の方が玉砕されています。
この戦いに実際に参戦されて、最後に捕虜になって生き残った方のひとりが、渋谷・大盛堂書店の元社長であられた舩坂弘さん(軍曹、当時23歳)です。
 
その船坂さんは、書店事業で大成されたあと、毎年のようにパラオにでかけられ、南洋交流協会さんなどと一緒に慰霊碑の建立など、さまざまな形で御国に準じられた英霊たちのためにたくさんのお働きをなさっています。
 
そしてある日、靖国神社で講演された際、今日のこの「ペリュリューのジャンヌダルク」のお話をされたのです。
また昨年行われた靖国のパラオ展では、パラオでの酋長さんが、「パラオに『鶴の家』という料亭があり、そこの久松(ひさまつ)という美しい芸者さんが銃を撃ちまくって死んだ」というお話をされています。
 
けれど詳しいことがわからない。
米軍のなかでもたいへんに尊敬されたという芸者・久松の名は、歴史の中に埋もれてしまいそうになっていました。
ところがその芸者・久松について、新井恵美子さんが、まる5年越で調査を重ねられ、ようやく出版にいたったのが、この「パラオの恋」だったわけです。
 
ひとつ書いておかなければならないことがあります。
それは、米国人の意識についてのことです。
 
米国民は、ペリュリューで勇敢に戦い死んで行った久松のことを、ジャンヌダルクと讃え、また彼女のために、白い十字架も建てました。
けれどその同じ米軍が、サイパンでは日本人の民間人を追いつめ、女性たちがバンザイクリフで次々と飛び込む様子を映像に撮影しながら、横で「また落ちた!」と歓声をあげてもいます。
 
米兵が残酷だといっているのではありません。
そうではなくて、彼らは「勇敢に挑んで来た者に対しては、たとえ仲間が何人殺されようと、その相手を讃え敬意を表するるが、ただ逃げて戦おうとしない者に対しては、どこまでも残忍になる」ということを申し上げたいのです。
 
このことは、何も米兵に限ったことではありません。
世界中、どこの国においても、それがあたりまえの常識である、ということを、私たちは教訓として学ぶ必要があると思います。
他国に馬鹿にされ、領土領海を蹂躙されたり、事実を捏造されても、ただひたすら「ごめんなさい」と謝ることが良いとされているのは、実は、日本人くらいなものです。
侵略されたり、蹂躙されたら、徹底的に戦う。
そこではじめて、世界の人々は、その国やその国民、その個人を尊敬するのです。
 
日本は、これまでの外交方針を、一変させなければなりません。
そのことを芸者久松は、笑いながら私たちに語りかけてくれているような気がします。
 
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2041.html
 
(以上、小名木善行先生より。)
 
 
日本とパラオ ~歴史を越えた友情!
 

 
反日国家などよりも、パラオなど多くの親日国家に行きましょう!!!!



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