二つの祖国~「日系人最強部隊442」 ダニエル・イノウエ氏

いろんなことがあってバタバタしていた数日間。そしてここ一週間は、コネチカットの小学校での 銃乱射事件で言葉を失うほどの衝撃を受け、「なんだって私はわざわざこの国に住んでいるんだろう」とそう思っていました。

国家の状況に取り組むにしても、 とりあえず目の前にある自分の仕事をきちんとしなければ、と気分を切り替えてクリスマスの買い物や、施設へのちょっとした贈り物の買い物… バタバタしている時にハワイのダニエル・イノウエ上 院議員逝去のニュースが入ってきました。88歳とはいえ、そんなに健康状態が悪かったとはまるで知らず、突然のニュースだったので、びっくりしました。

ダニエル・イノウエ議員は、上院 でも勤務年数最長のベテラン中のベテラン議員でした。日系移民そして日系二世がアメリカ西海岸(および一部の人はハワイでも)で強制収容されるなか、日系 人ばかりの442部隊(戦争中もっとも功績の多かった部隊のひとつ)に入隊し、イタリア戦線で負傷し右腕を失いました。

軍の病院で治療・ リハビリを受けた後ハワイに戻ってハワイ大学を卒業し、ワシントンのジョージ・ワシントン大学で法律を学んでから、1954年に多くの日系人が当選したい わゆるハワイの「民主党革命」といわれる大きな変化の流れのなかで、政治家としての道を歩み始め、ハワイが1959年に州としての地位を獲得するととも に、連邦議員としてのキャリアを築き始めました。

その後、地元ハワイにさまざまな資金をもたらすと同時に、ウオーターゲート事件やイラ ン=コントラ事件の調査、公民権推進や貧困対策、先住民文化の保護などに大きな貢献を果たし、レーガン政権中の1988年には戦時中強制収容された日系人 に謝罪と補償をする法案を、さらに1993年には、1893年にハワイ王国がアメリカ政府によって不当に転覆させられたことについてクリントン大統領が謝 罪する法案を実現させるのに決定的な役割を果たしました。

日系人、アジア系アメリカ人、非白人の政治家としてまさにパイオニアの存在であ るばかりでなく、ベテラン上院議員として党を超えたきわめて強力な政治力をもっていたイノウエ氏。おりしも、もうひとりのハワイからの上院議員のアカカ氏 が引退して、メイジー・ヒロノ氏にバトンタッチするところ。今後のワシントンにおけるハワイの位置づけがたいへん気になるところです。

報道によると、イノウエ氏の最期の言葉は、「Aloha」だったそうです。なんと素敵なお別れの言葉でしょうか。こちらからも、Aloha, Senator Inouye。いろいろな新聞の報道もなかなか興味深いので、よかったら読み比べてみてください。

最後に この442連隊の功績はこれだけアメリカでは語り継がれているのに、日本では全く教えていないこの現実。

沢山の子供達に歴史の授業で教えてもらいたいです。

ハワイの地元新聞はこちら。http://www.staradvertiser.com/news/breaking/183853331.html?id=183853331

ニューヨーク・タイムズはこちら。http://www.nytimes.com/2012/12/18/us/daniel-inouye-hawaiis-quiet-voice-of-conscience-in-senate-dies-at-88.html?smid=pl-share&_r=0

ウオール・ストリート・ジャーナルはこちら。http://online.wsj.com/article/SB10001424127887323723104578185890609182654.html?mod=WSJ_hpp_MIDDLENexttoWhatsNewsForth

日本版もできると最近発表されたハッフィントン・ポストはこちら。http://www.huffingtonpost.com/2012/12/17/daniel-inouye-dead-dies_n_2316242.html

(米陸軍442連隊:日系部隊) アメリカ陸軍442連隊は、第二次大戦時に日系人で編成された部隊。父母の祖国・日本と戦う苦悩を抱えながら、アメリカの中で人種差別と戦い、ヨーロッパ戦線ではファシズムと戦った伝説の兵士たち。彼らはアメリカ軍史上最も多くの勲章を受けた最強の部隊として歴史に凛然と輝く。戦場での合言葉は 「ゴーフォーブローク!(当たって砕けろ!)」。大和魂はアメリカの地で生まれた彼らにもしっかりと受け継がれていた。

「以上、アメリカ在住の友人(大和撫子さん)より」

『二つの祖国で 日系陸軍情報部』

イノウエ氏葬儀にオバマ大統領「最も魅了した・・・」(12/12/22)

日系人部隊 第442連隊戦闘団 ①

日系人部隊 第442連隊戦闘団 ②

ダニエル・ケン・“ダン”・イノウエ(Daniel Ken “Dan” Inouye、日本名:井上 建(いのうえ けん)、1924年9月7日 – 2012年12月17日)は、アメリカ合衆国の政治家。元アメリカ陸軍将校、上院議員、上院仮議長。

1963年から50年近くにわたって上院議員に在任していた長老議員であり、上院民主党の重鎮議員の1人であった。2010年6月28日に最古参であったロバート・バード上院議員が死去したことで、上院で最も古参の議員となり、またこれに伴い慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出、亡くなるまで同職にあった。上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第3位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなる。また第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に従軍し、数多くの栄誉を受けた。アメリカ陸軍での最終階級は陸軍大尉。

生い立ち

祖父は福岡県、祖母・母は広島県の出身で、一家の失火による借金を返済する為に、1899年(明治32年)9月28日に福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)から祖父母の浅吉・モヨとともに渡米した父・兵太郎と母・かめ(旧姓:今永)のもと、1924年(大正13年)に当時アメリカの準州であったハワイのホノルルで生まれる。その後ホノルルの高校を経てハワイの名門大学であるハワイ大学マノア校に進学した。

第442連隊の英雄

陸軍少尉時代のイノウエハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願、その後アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦う。

イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、1945年4月21日に右腕を失い、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄としてたたえられる。1947年に陸軍大尉として名誉除隊した。右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめた。ハワイ大学に復学し1950年に同大学を政治学BA Government and Economicsを得て卒業した。ジョージ・ワシントン大学の法務大学院に進学し、1953年にJ.D.を授与された。 1954年に退役軍人のElton Sakamoto 、Sakae TakahashiらとCentral Pacific Bankを設立した。

日系人初の上下両院議員

その後は政界に進出し、1954年には準州であったハワイ議会の議員に当選した。1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となる。

その後、1963年には上院議員となり(同じく第442連隊戦闘団員であったスパーク・マツナガも下院議員に当選する)、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年にはウォータゲート事件と1987年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委委員長となり注目を浴びる。アメリカ軍の予算に大きな権限を持つ上院歳出委員会国防小委員会の民主党長老議員として、エリック・シンセキ大将の陸軍参謀総長就任に尽力している。

議員として

民主党の上院議員として上院歳出委員会の国防小委員会で上級委員を務めたほか、カリフォルニア州ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにある全米日系人博物館の理事長も務めた。2000年6月21日に、陸軍殊勲十字章、青銅星章(英語版)の受賞理由が見直され、軍人に贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章したほか、2007年11月、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された。2008年アメリカ合衆国大統領選挙においては、ヒラリー・クリントン上院議員を支持した。2010年の中間選挙にて民主党は上下院共に苦戦を強いられたが、再選を果たした。

1996年に前妻と死別。2008年1月29日に「全米日系人博物館」館長 アイリーン・ヒラノと再婚した。

死去

2012年12月、ワシントンD.C.郊外のメリーランド州ベセスダにあるジョージ・ワシントン大学附属病院(英語版)に入院し、酸素吸入の処置を受けていたが、同月17日17時過ぎ、呼吸器合併症のため死去。88歳没。死去の前、「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ、できたと思う」と述べ、

最後の言葉は「アロハ」(さようなら)だった。

死去に際して、オバマ大統領は「真の英雄を失った」「彼が示した勇気は万人の尊敬を集めた」との声明を発表したのに続き、パネッタ国防長官、クリントン国務長官、上下両院の軍事委員長らが相次いで功績を称えた。同月20日、遺体を納めた棺がアメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典が開かれた。大広間に遺体が安置されるのは、エイブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、イノウエ議員は32人目となった。

名誉勲章

イノウエが受章した名誉勲章への感状には下記のように記されている。

ダニエル・K・イノウエ少尉は1945年4月21日、イタリアのサン・テレンツォ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。重要な交差点を守るべく防御を固めた稜線を攻撃している間、イノウエ少尉は自動火器と小銃から浴びせられる射撃をかいくぐって巧みに自身の小隊を指揮し、素早い包囲攻撃によって大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵陣から40ヤード以内の場所にまで導いた。掩蔽壕と岩塊からなる陣地にこもる敵は、3丁の機関銃からの十字砲火により友軍の前進を停止させた。イノウエ少尉は自らの身の安全を完全に度外視し、足場の悪い斜面を最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで這い上がり、2個の手榴弾を投擲して銃座を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって第2の機関銃座を無力化した。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、至近距離で他の敵陣地と交戦し続けた。激しい痛みにも関わらず彼は後退を拒否して、敵の抵抗が破れ、部下達が再び防御体勢に入るまで小隊を指揮し続けた。攻撃の結果敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の勇敢かつ積極的な戦術と不屈のリーダーシップによって、彼の小隊は激しい抵抗の中でも前進することができ、稜線の占領に成功した。イノウエ少尉の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍の最も崇高な伝統に沿うものであり、また、彼自身やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな栄誉をもたらすものであった。

(以上、ウィキぺディアより抜粋。)



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