南米 : ペルーに生きる日本の農業技術

日本国と南米諸国は、かねてから極めて良好な関係にあります。

南米諸国が、戦前-戦後に日本国に対して行ってくれた数々の援助、協力のお話しは以前の日記にもありますが、今回は日本国が南米ペルーに対して行った悲しいけれども立派な技術援助のお話しです。

ー遠くて近い「アミーゴ」の国々ー

* 南米(ペルー)に生きる日本の農業技術 *

此処は、ペルーの首都、リマの北北西約80kmにある、ワラル。

そこにペルー政府は85年、野菜生産技術センターを建設した。

首都リマの人口増加が著しく、野菜の需要が増加、首都に比較的近いワラルに、供給地帯として白羽の矢が立てられたのだった。

それは、『国家果樹野菜振興計画』の一環でもあった。

ところが、当時、野菜の生産は出来不出来の差が激しく、安定供給出来る状態ではなかった。

何とかしようと、農業でも確固とした技術を持つ日本に、技術協力が要請されたのだった。

それを受けて日本は、86年4月から農業技術専門家を派遣した。

実施計画の打ち合わせ、技術指導が重ねられ、センターの役割はペルー内で次第に重要性を増していった。

長期派遣される専門家の任期を、継続したり入れ替えたりしながらプロジェクトは続き、91年は宮川清忠、中西 浩、金良清文の3氏が赴任していた。

3氏は、様々な案件の内、野菜の中でも特に需要の多い玉葱の種の生産化を試み始めた。 

何しろ玉葱はペルー料理の基本中の基本の食材。

これなくして食事は作れない大切な野菜なのだが、市場に並ぶものはどれも大きさはバラバラで、味も統一されていない。

これでは農民も苦労が多かろう。

先ずしっかりした、誰が作っても失敗のない種を作ろう、と3氏は考えたのだった。

3氏は遠い異国の生活をいとわず、現地人スタッフとのチームワークを取りながら、献身的に仕事を続ける毎日だった。

そうしたある日。

突然の銃声が静寂を打ち壊した。

非道なテロリストがセンターを無差別襲撃、3人は無抵抗のまま現地人スタッフと共に射殺されたのだ。

91年7月の事だった。

野菜センターの現地人スタッフ達は、たいへん深い悲しみに包まれた。

同時に日本、ペルーの両国も重い空気に包まれた。

日本は治安の悪化を理由にJICAの専門家を帰国させ、プロジェクトは現地人スタッフに引き継がれる事になってしまった。

しかし、ペルー人はへこたれなかった。

野菜生産技術センターの現地人スタッフは、3人の意思を受け継ぎ、努力に努力を重ねて、やがて目標だった種の固定化に成功したのである。

この功績は日本の貢献によるものだと、彼らは信じている。

現地人スタッフ達は、

「日本人の先生が教えてくれた事を思い出しながら頑張った。」

「3人の先生方が導いてくれたんだ。」

と、語った。

今、現地ではワラルで作られた種を蒔けば、同じ玉葱が採れると、高い評価を得ている。

そして、亡くなった3人の机の上には、現地人スタッフの手によって今も感謝と供養の花が飾られ、その意思と功績を称えている。

支援が続いている間にははっきり見えてこなかった、技術協力の成果。

それは皮肉な事に、悲しい結末によって、かえって浮き彫りになったのだった。

まるで潮が引いた後に、砂の上に貝殻が残るかのように……。



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