大西瀧治郎中将

昭和19年10月19日、大東亜戦争も フィリピン方面では絶望的な状況の中にあった。

最早刻々と日本本土に迫る敵軍に対して日本軍には有効な攻撃手段は皆無であった。

残された最期の攻撃手段は、飛行機ごと敵艦に体当たりすることのみであった。

当時フィリピン方面の海軍航空隊司令長官だった大西瀧次郎中将は、この様な逼迫した事態のなか断腸の決断により、特別攻撃隊による攻撃を決意した。

そして直後「神風特別攻撃隊」が誕生した。

そして大西中将は「特攻隊の産みの親」と呼ばれるようになった。

神風特別攻撃隊は「関行男大尉」以下24人で編成され、昭和19年10月25日フィリピン・マバラカット(アンへレス)から飛び立ち、フィリピンへ侵攻してきた米艦艇に突入し、護衛空母ほか5隻撃沈破する大戦果を挙げた。

昭和19年11月7日からは陸軍も比島で特攻作戦を開始し、以後特攻は日本軍の中心的戦術と相成った。

しかし圧倒的な敵軍の前には特攻作戦も機能せず、遂に昭和20年8月15日終戦となった。

終戦の日、特攻産みの親と呼ばれた大西瀧次郎中将は、特攻戦死者及び遺族への謝罪を記した下記の遺書を残し、割腹自決した。

この時、側近が介錯を申し出たが、大西中将は「特別攻撃隊員達はもっと苦しんだのだ。介錯も治療もしてくれるな。」と自らの割腹に依る激烈な生の苦痛に長時間苦しみ抜いて亡くなっていった。

ー遺書ー

「特攻隊の英霊に日す 

善く戦ひたり深謝す 

最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり

然れ共 

其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 

吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青少年に告ぐ 

我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 

聖旨に副ひ奉り

自重忍苦するの誡ともならば幸なり 

隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ

諸子は国の宝なり 

平時に処し猶克く特攻精神を堅持し

日本民族の福祉と世界人類の為最善を尽くせよ。」



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