日本と中南米 : 意外に知らない 「遠くて近いアミーゴの国々」

1.コロンブスとジパンゴ

 日本とラテンアメリカとは意外に浅からぬ縁で結ばれている。約500年前のコロンブスによる新大陸発見も、実はジパング(またはシパンゴ、「日本」の中国音に由来するといわれる)の黄金への憧れが発端の一つになっていた。コロンブスは、スペインのイサベラ女王の援助の下、アジアへの西回り航路発見の旅に出るが、1492年、バハマ諸島に到達したとき、航行距離から、日本が同諸島の近くにあると信じて探索に躍起になり、エスパニョーラ島で住民が黄金の装身具をつけていること、また、シバオという金山があることを聞いて、これがシパンゴに訛ったものに違いないと考え、ついに日本を発見したと喜んだ。そして意気揚々帰国し、スペイン宮廷に対し「ジパングの黄金」と共に東方世界への西回り航路開拓の夢を果たしたことを報告するのである。

2.日本がチリから購入した軍艦

 1883年チリが太平洋戦争(対ペルー、ボリビア)に勝った後売りに出した軍艦「アルトゥーロ・プラット」を日本が購入して「筑紫」と命名。同艦は日清戦争で大活躍。また1884 年には、チリの「エスメラルダ」を購入、「和泉」と命名されたこの軍艦は、日清・日露の戦争、特に後者で活躍し、殊勲艦となった。

3.日露戦争とアルゼンチンの厚意

 日露戦争当時、バルチック艦隊との決戦に備え必死に努力していた日本に対し、アルゼンチンから2隻の最新鋭巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」が譲渡され、我が国朝野に深い感銘を与えた。これらの2隻はそれぞれ「日進」、「春日」と名付けられ、日本海海戦で偉功を立てた。このときアルゼンチンから派遣され、戦況を観戦していたドメック・ガルシア観戦武官は、後に海軍大臣となり両国の長い友好の歴史において、強い絆となった。

4.戦前の移住

 徳川幕府は開国後間もない1866年、海外渡航の禁を解いたが、今日残っている記録では、1878年の尾須弘平(グァテマラ)、1887年の牧野金蔵(アルゼンチン)の渡航等がラテンアメリカ移住のさきがけである。組織的移住は1897年、35人がメキシコに渡った(榎本移民)のが初めてといわれる。戦前の移住はラテンアメリカと日本との交流史の中で極めて大きな比重を占めている。

5.第二次大戦直後のアルゼンティンからの救援物資の送付

 終戦後の1949年、アルゼンティンのペロン大統領夫人エバ・ペロンは、在留邦人の要望に応え、戦後の窮乏にあえぐ我が国に対し、リオ・イグアス号に食糧その他の救援物資を満載して贈与、日本国民を喜ばせた。

6.サンフランシスコ条約による復交とその後の外交関係の発展

  1951年9月のサンフランシスコ講和会議には49ヶ国が参加して対日平和条約に調印したが、そのうち、ラテンアメリカ諸国は20カ国全てが1カ国の例外もなく、同会議に参加して対日講和条約に調印し日本との国交を回復した。また議場でのラ米各国代表の演説はことごとく対日復交を歓迎し、日本の国際社会復帰を祝福するものであった。また、1952年3月、メキシコがイギリスに次ぎ2番目に対日平和条約の批准書を寄託したことは永く日本人の記憶にとどめられている。その後、ラテンアメリカ諸国は日本との外交関係を強め、1995年4月現在でラテンアメリカ21カ国が駐日大使館(実館)を開き、25カ国が領事館(名誉領事館を含む)を設けるなど、緊密な対日関係を保っている。

7.日本国連加盟に際してのラテンアメリカの支援

 1956年我が国の国連加盟に際しては、ラテンアメリカ諸国が力を添えてくれた。まず同年12月、第11回国連総会に提出された「日本の加盟のための34カ国共同決議案」にはペルーが参加し、続いてブラジルなど6カ国も加わって積極的に実現に貢献したのみならず、決議案の採択に当たりその他の13カ国も全て賛成票を投じた。又これが、その後の国連場裡での各種選挙、決議案採択などに際しラテンアメリカ諸国が1つの安定した勢力として一貫して好意的対日姿勢を維持してくれることの発端でもあり、さらには国連の各専門機関、その他の国際機関における日本とラテンアメリカとの今日の幅広い協力の発端ともなった。



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