易しいゼロ戦の操縦法!!~撃墜王(大空の侍) 坂井三郎氏!

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零戦 エンジン始動~タキシング~ランナップまでの手順です。
 

 
大日本帝国海軍 エースパイロット(撃墜王) 坂井三郎氏 1/2
 

 
大日本帝国海軍 エースパイロット(撃墜王) 坂井三郎氏 2/2
 

 
ー大空の侍!坂井三郎氏!ー
 
坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 – 2000年(平成12年)9月22日)は、大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員(パイロット)。
太平洋終戦時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。
終戦までに大小多数の撃墜スコアを残す日本のエース・パイロットとして知られる。
戦後に海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』は世界的ベストセラー。
 
ソロモン、ラエでの活躍
 
坂井はソロモン航空戦でもっとも多く撃墜していて34機撃墜をしている。
ラエ時代の1942年(昭和17年)5月17日には、坂井と並ぶ台南空の撃墜王であった西沢広義と太田敏夫の3人により、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをしたりしたことが、後に露見して笹井醇一から厳重な注意を受けたとする逸話が残っている。
 
負傷と復帰
 
1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル島上空にてアメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fと交戦、これを撃墜。
最近になって発見されたサザーランドの機体の残骸の銃跡すべてが当時の壮絶さを静かに物語っている。
そののちガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレスの編隊を「油断して直線飛行している」F4Fワイルドキャットの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。
その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し(そのため左腕が麻痺状態にあった)計器すら満足に見えないという重傷を負った。
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。
一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。
まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。
その後内地に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ちた。
同年10月飛行兵曹長に昇進。右目の視力をほぼ失ったことにより、搭乗員を辞めさせられそうになり、ラバウルより帰国して再編成中の251空(台南空を改称)に病院を脱走して駆けつけた。
新しい司令には小園安名中佐が就任しており、事情を話したところ「坂井は片目でも若い者よりは使える」「おまえの空戦技術を若い搭乗員に教えてくれ」と言われ、ここに再び戦闘機の操縦桿を握ることとなった。
 
逸話
 
大型輸送機を見逃す
 
1942年初頭、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機(坂井はダグラスDC-4と回想しているが実際にはDC-3と思われる)に遭遇した。
当時、当該エリアを飛行する敵国機(飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない)は撃墜する命令が出ていた。
相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えた。
 
味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。
 
その様子を見てさすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。
 
坂井は敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。
 
彼は後に、青山学院中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と彼女が似ており、殺すべきではないと思った、と語った。
攻撃せず、あまつさえ逃亡を許した背命行為は重罪であり、また軍律違反はいかなる理由にせよ恥ずべきことだと感じていた坂井は戦後の著作にもこの件を記述しなかったが、年を重ねるに従って考え方が変わり、終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明かした。
 
坂井はインタビューで、戦争とは軍人同士が戦うものであり、民間人を攻撃するものではないと信じていたと答えている。
 
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、該当パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。

 
空の要塞を初撃墜
 
空の要塞と呼ばれ、難攻不落と恐れられたボーイングB-17爆撃機を枢軸国軍側兵士として初めて撃墜した1人とされている(共同撃墜)。墜落するまで機影を見届けなかった坂井は「戦果未確認」と報告したが、戦後AP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンとの会見の中で「あれは撃墜だった」と言われて初めて戦果を知ったと著作に記述している。
当時「空の要塞』は絶対に墜ちないという考えがあり、援護戦闘機もつけず単機フィリピンのビガン泊地の日本船団上空に現れたものであった。
「B-17は絶対落ちることがない」と言う宣伝が実戦で否定された事に対し、アメリカ国内では美化宣伝(戦艦ヒラヌマ撃沈発表)が流布された。
 
「大空のサムライ」としての戦後
 
戦後は印刷会社を経営するかたわら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。
代表作となる戦記『大空のサムライ』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。
当時の欧米では、戦争中のプロパガンダの影響もあって、日本人に対する偏見が根強く、多くの外国人が「日本人パイロットはただ獰猛に敵を攻撃する事しか考えない冷血な戦闘機械である」という認識を持っていた。
しかし、『大空のサムライ』により、日本人パイロットも「自分達と同じ感情を有する人間」だったと再認識したと言われる。
 
また、イラク空軍では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある
 
70歳を超えた時にもセスナ機を見事に操縦し、宙返りまでやってみせた。
 
これを観た記者や軍人は老いた元零戦パイロットが巧みに操縦したことに舌を巻いたという。

 
ただし当人はかなり無理をしており、歳には勝てないと慨嘆した。
 
(以上、ウィキぺディアより抜粋。)
 
私が、此の「FDSA航空学校」を創立した頃(20歳代前半)には、時々、私の記事が日本国内の航空新聞に掲載されていまして、それを見て頂いた信州の下伊那郡地方にお住まいの元零戦パイロットの年配の方々数人様から私のところへ電話が掛ってきていました。
皆さん、同様に機体(零戦)の事を非常に懐かしがって、しかしたいへん穏やかに紳士的に話して下さいました。
(なにか、感慨深いものと同時に重苦しく深い寂しさが受話器越しに伝わってきたのを覚えています。)
もう、その方々も既にお亡くなりになられていると思います。
もっと、色々なお話しをお聞き致したかったと・・今更ながら残念でなりません。
あの時にお電話を頂きました大先輩様方々に深謝申し上げます。

 



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4 返信
  1. がんこじじい
    がんこじじい says:

     坂井さん、まさに武士道精神そのものですね。
    その精神行動に目頭が熱くなります。
     自分はプロペラ機が大好きでレイテ時代はタクロバン空港からセブマクタン空港まで何度かセブパシのぺロペラ機に乗りました。
    ブラジルでもサンパウロからリオデジャネイロまでプロペラ機の乗りましたが感動の連続でした。
     時々百里基地に行って戦闘機の発着を見ますが、なぜかプロペラ機に心打たれます。
    今年も霞ヶ浦の記念館に行きます。

    返信
  2. パパアキー
    パパアキー says:

    戦時中、日本はアメリカを鬼畜米英と呼び、アメリカは日本をイエローモンキーと呼んだ、この違いはなんだろうか?、日本人は正面から鬼に立ち向かったが、鬼たち(アメリカ)は猿の(日本)駆除程度の倫理しかなかった、故に無差別絨毯爆撃をしても、死ぬのは猿だけだと思っているので罪の意識がない、漂流している日本人に対して、機銃掃射をしてもなんとも思わない、極め付きは白い船体に赤十字マークをつけた病院船に、魚雷攻撃を仕掛けた馬鹿な潜水艦がいる、なぜ日本にだけ戦犯がいて、いまだにグズグズ言われなくてはならないのだろうか?、戦勝国にはなぜ戦犯がいないのか?、もう一度東京裁判をやり直す事が、愛国者とパール判事の願いです。

    返信
  3. fdsa
    fdsa says:

    がんこじじいさん。
    コメントをありがとうございました。
    坂井さんは、正に日本の武士道精神を維持された素晴らしい方です。
    私も飛行機の旅で一番好きなのは、やはり「プロペラ機」です。
    ジェットは単なる早く目的地に到着する為だけのもので、飛行機独特の良さに欠けます。
    ブラジルなど南米でもプロペラ機にお乗りになられたとは流石ですね!
    きっと良い旅であったと存じます。
    霞ヶ浦の記念館も感動の場所です。
    私も、今年機会が有りましたら是非とも行きたい所です。

    返信
  4. fdsa
    fdsa says:

    パパアキ―さん。
    コメントをありがとうございました。
    米軍の「無差別絨毯爆撃」は酷いものであったと想像出来ます。
    当地フィリピン国内に於いても、死亡者の数が甚大になった原因は米軍のそれの為ですね。
    フィリピン人の年配の方達は、それを知っていますので、戦後幾ら米国が教科書を捏造しても真実は曲げられませんでした。
    元々米国は、そう云う遺伝子を持つ国です。
    本来のアメリカ先住民族であるインディアン狩りの歴史が物語っています。
    そして、それと同じ方法で1902年にフィリピン人も大量虐殺しています。
    従いまして、米国などから安倍首相の靖国参拝を非難される筋合いは全くありません。
    東京裁判のやり直しをしてもらいたいですね、本当に!

    返信

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