秋水 : ロケット推進戦闘機

日本本土防衛の最も重要な課題は、重爆撃機B29との対決であったが、日本には対抗できる航空機が無かった。

その開発は早くから進められていたが、技術力の不足、資源の枯渇により順調には進まなかった。

昭和19年7月、ロケット戦闘機の合同研究会が行われ、海軍から軍令部・航空本部・空技廠、陸軍か
ら参謀本部・技術研究所・航空審査部、民間から五社が参加した。

ドイツから運んだメッサーシュミットMe163の資料をもとに、機体は海軍、エンジンは陸軍、製造は三菱航空機の担当で共同開発を行い、海軍では「秋水」、陸軍では「キ200型」と呼んだ。

【開発】

秋水の開発開始は、1944年(昭和19)3月、日本にも情報が入っていた来るべき超重爆(B-29)の邀撃の為、日独軍事援助協定に基づいて行われた技術交換の1つであるドイツのロケット戦闘機Me163コメートの陸海軍協同国産化を決定したところに始まる。

その技術資料は同一の2つのものをドイツから時間差で渡され、1組は吉川春夫海軍技術中佐が呂501で、もう1組は厳谷英一海軍技術中佐が伊29でドイツから持ち帰る事になっていた。

ところが呂501は大西洋で連合軍艦隊に捉まり撃沈されてしまい、伊29のみがインド洋経由で7月14日にシンガポールに到着した。

厳谷中佐はそこで手荷物として持ち込めるだけの書類を持って輸送機に乗り込み、19日、先立って日本へ帰還した。

その資料は早速海軍航空本部に送られ、国産化についての議論の的となった。

資料は持ち帰ったものの、ドイツから手渡されていたMe163の資料は手荷物として持ち帰った機体とエンジンの説明書・燃料の成分及び取扱法・比重表くらいなもので、常識的に考えれば国産化など到底無理な事だった。

しかし、6月15日の北九州若松方面の爆撃から始まったB-29の襲来に対して有効な打撃を与えられない陸海軍はMe163国産化に大きな期待を寄せるようになっていた。

資料を入手してからは横須賀の空技廠において陸海軍にメーカー関係者を加えたメンバーで毎日のように検討会が開かれており、その期待の大きさが分かる。

ロケット戦闘機は高速を生かして一気に高高度まで駆け上り、護衛する戦闘機を一気に突破、二撃を加え高速離脱する。

従来のレシプロエンジン機では迎撃高度まで上がる頃には既に爆撃機は爆撃を開始しているという状況にあったのだから、さぞかし魅力的なものに思えただろう。

硫黄島が占領され戦闘機による護衛が付き、返り討ちに遭う様な状況になってからはその期待は弥が上にも膨らんだであろう事は想像に難しくない。

8月7日には三菱に対して試作機が発注される事になった。

計画によれば1945年(昭和20年)の3月までに155機、9月に1300機、1946年(昭和21年)までに3600機と言う壮大な量産が行われる事になっており、これを以てB-29に大打撃を与えようと目論んだ。

もっとも当時の日本にはそのような大規模量産をするような能力はないし、運用する能力も無かった。

機体の開発は海軍が三菱重工名古屋航空機製作所で、エンジンの開発は陸軍が三菱重工名古屋発動機研究所にて担当する事となり、燃料関係は海軍第一燃料廠と民間の化学工場が担当する事となった。

既にB-29による爆撃は始まっている為、作業は急がれ、機体設計の提出期限は10月15日、エンジンの方は10月末までに2基を完成させるという凄まじい濃密スケジュールを命令され、担当の技術者たちは文字通り不眠不休の作業を強いられた。

機体設計には高橋己治郎技師が主任に着き、主翼及び尾翼に疋田徹郎・原田金次技師、胴体に楢原敏彦技師、武装に蝦名勇技師、降着装置に今井功・中村武技師、操縦系統に磯辺保文技師、電気関係に小佐弘技師が着き、一方エンジン関係は持田勇吉技師以下十数名が着いて、急ピッチで作業を進めた。

結果的に機体開発の方は1944年(昭和19年)11月に機体設計を完了し、12月には試作1号機の機体を完成させと言う驚異的な速さで完成した。

僅か20ページあまりの説明書から4ヶ月という速さで完成にこぎ着けたのだから驚異である。

一方陸軍で「特呂二号(特殊ロケットの略)」、海軍で「KR-10(くすりロケットの略)」と命名されたエンジンの方はと言えば、やはり機体開発に比べて難航しており、特にドイツからの資料が少なかったタービン駆動用のインペラなどは完全な独自設計となっていた。

試作品は作られたものの、液の逆流や流れの不均衡が起こったために30kg/cm^2の規定圧力が実現出来ず、最終的にはこの分野の権威と言われていた九州大学工学部教授(当時)の葛西秦二郎氏に助力を仰ぎ、翌年1月になって何とか必要な圧力を得る事が出来た。

資料が有った部品に付いては試作発注から20日間の間に図面を引き終わり、燃焼室・調圧機器・ポンプ・動力・調量機器・噴射用機器・配管といった部品が完成していった。

しかし、1944年12月9日名古屋はM8.0の大地震、俗に言う東海大地震に見舞われ各工場施設は大きな被害を受けた。

更にその6日後B-29による大規模空襲が行われエンジンを開発していた工場も工員264名死亡、生産設備大破の損害を受け、事実上その機能を喪失してしまった。

そこでエンジン設計班は横須賀の追浜海軍基地に移転する事となり、受け入れ時に多少陸軍から文句が付いたものの開発はそこで続けられた。

1945年(昭和20年)1月19日には初めて燃焼実験に成功、日本で初めてロケットエンジンの炎が出現した。

しかし、その後数々の不具合・故障が頻発し実用化出来るような状態ではなかった。

エンジンの開発はただでさえトラブルが付き物である。

新動力となれば尚更、この遅れを責めるのは酷と言うものだろう。

4月、遂に横須賀も、硫黄島から発進したP-51などに空襲されるようになり、エンジン設計班はさらに長野県松本飛行場横の陸軍実験施設に移転した。

一方数々の実験は、一技廠および三一ニ空整備分隊による実験場である、神奈川県山北で行われた。

この様に数々の障害に悩まされ続けていた特呂二号も6月末、遂に三分間の全力運転に成功した。

とは言え、まだまだ完成の域には達していない。

特呂二号は結局のところこの後も完成はせず、増加試作の段階で終戦を迎える。

難航したとは言えあくまで「機体と比較して」の話であり全く新しい動力を11ヶ月で全力運転にまで持って行った技術陣の力はやはり驚くべきものである。

エンジンは山北と松本でそれぞれ1基ずつ製作され、早速7月4日には山北の方は秋水1号機(海軍用)の機体に、松本の方は7月3日に秋水2号機(陸軍用) に搭載された。

その後テストを行ったところ、どうやら秋水1号機に搭載したエンジンのほうが調子が良いという事で、7月7日の午後2時に初飛行することが決定された。

初飛行の舞台は追浜海軍飛行場。

他にもっと広い厚木飛行場や木更津飛行場も検討されたが、万一の時には海に近いほうが良いだろうという理由で追浜に設定された。

しかし、木更津飛行場も海に面している事から、海に面していたという理由だけではないだろう。

パイロットは水上偵察機から転向して横須賀航空隊三一二空や霞空で、軽滑空機「秋草」や「重滑空機秋水」の操縦経験を持つベテランパイロット「犬塚豊彦大尉」である。

7月7日、秋水1号機は燃料を3分の1搭載した状態で飛行場に引き出された。

燃料3分の1というのは新動力だから慎重にという配慮からである。

結果論から言えばこの慎重さが裏目に出て惨事に繋がってしまう。

実際に機体を扱っている人々は燃料を少なくするとまずいというのは分かっていた筈でこれも又、トップの一言で決まってしまったのではないかと思われる。

朝から快晴で初飛行には申し分の無い天気だったが、肝心のエンジンがうまく作動していなかった。

起動までは上手くいくものの、スロットルを動かすと即停止という具合で結局飛行開始許可が出たのは予定飛行時刻を大幅に過ぎた17時だった。

飛行許可が出ると犬塚大尉は、滑走路に出た後スロットルを3段目に入れて轟音と共に一気に加速した。

離陸は上手くいき上昇角45度の急上昇を行った。

ところが高度400mに差し掛かった辺りで突然「パーン」という音と共にエンジンが停止、機体は余力で500mまで上ったところで上昇を停止した。

直ちに犬塚大尉は二度エンジン再起動を試みるも起動せず、甲液を非常投棄しながら螺旋回を取った。

事前の打ち合わせでは、非常時には海に不時着水も出来たが、貴重な機体を失いたくないという思いから飛行場に戻ろうとしたが、沈下率は大きく滑走路手前の物置小屋の屋根に右主翼が引っ掛かってしまった。

機体は高速で激しく横滑りしながら地面に接触し、滑った後停止した。

幸い機体はほぼ原型を留めていた。

燃料漏れ対策として待機していた消防車が放水を行い、それと同時にコクピットから犬塚大尉を救出、直ぐに地下壕に作られた病室に運ばれた。

しかし犬塚大尉は意識朦朧・頭蓋低骨折の重体で、翌日8日未明に殉職した。

日本初のロケット飛行は僅か2〜3分のうちに最悪の結果で幕を閉じたのである。

8日に事故調査委員会が発足しエンジン停止の原因究明に乗り出し、空技廠が撮影した16mmフィルムと墜落した機体、見ていた関係者などから調べ、結論は直ぐに出た。

1つは燃料タンクの燃料取り入れ口が前方下部に付いていた為、もう1つは燃料を3分の1しか入れてなかった事だった。

急角度で上昇中に燃料が後部へ移動してしまい、燃料取り入れ口が空気を吸ってしまった事がエンジン停止の原因であった。

燃料タンク設計に対しては委員会上で三菱設計陣が厳しく追及される事になる。

又、周囲に民家や建造物がある狭い追浜飛行場を選んだ事もパイロット殉職の原因となったとも言える。

この委員会は 312空の柴田司令が燃料を3分の1しか積まなかった事と追浜飛行場を選んだのは自分の責任だと宣言した事で解散となった。

三菱は陸海軍関係者との協議の結果燃料取り込み口に改良を加える事を決定し、先ずタンク自体の構造を少し変えて燃料タンク内の燃料が一気に後方へ移動しないようにし、さらに燃料取り込み口自体も上下左右に動くようにした。

この改修機の飛行は、3号機を使用した海軍が8月2日、2号機の陸軍が8月10日に予定された。

しかし、エンジン不調や7月15日には燃料ポンプの爆発による整備分隊長正田大尉殉死という大事故まで起こしてしまい、そうこうしている内に8月15日の終戦となり、秋水計画は幕を下ろした。

この基本型秋水の他にエンジンに補助燃焼室を設けて航続距離を伸ばしたキ202「秋水改」を陸軍が計画し(Me163Cと同様の改修)、一方海軍は武装を 30mm機関砲1門に減らした上で燃料搭載量を増加且つカタパルト発進可能としたJ8M2を計画していたが、勿論、全て書類上の存在で終わった。

前述のように陸海軍は自らの力と不均衡な程の壮大な量産計画を立てていたが敗戦の時点で完成していた機体は5機、完成間近なものが10機で、エンジンに至っては2基しか完成していなかった。

とは言え終戦間近の日本がロケットという全く新しい動力で飛ぶ機体を僅か1年未満で初飛行に漕ぎつけたのは驚くべき事である。

なお想定されていた具体的な秋水の運用方法であるが、ロケットエンジンでB-29の上まで3分半で駆け上り反転、この時点で燃料タンクはほぼ半分を消費している。

護衛の戦闘機が対応できない内に、高速滑空状態でB-29に機銃を叩き込み、速度を保ったまま離脱する。

そして残りの燃料で反転して二撃目を叩き込んで離脱する。

後は、グライダーの要領で基地に帰還する。

しかし、極めて戦闘行動半径が短い為に、殆ど基地上空の様な位置にいる敵でないと叩けないのも弱点と言えた。

前述の壮大な量産計画は主契約の三菱は勿論の事、日本飛行機富岡・山形工場や日産輸送機鳥取工場、富士飛行機などとも話がつき既に量産に入っていた。

エンジン生産も三菱松本・枇杷島工場、海軍広工廠、陸軍兵器本部、ワシノ精機、新潟鉄工所、京都機械製作所などに話をつけていた。

この短期間に、まだ実用段階にも入っていない機体に関してこれだけ根回しするのも気合が入っている証拠だと思われる。

軍は本気で3,600機の量産計画を実行する積もりだった。

【運用準備】

機体とエンジンを開発している間に陸海軍は秋水を運用する部隊整備も行っていた。

海軍では1945年(昭和20年)2月、エンジン燃焼実験成功の知らせを聞くと共に最初の部隊を編成した。

横須賀航空隊百里原派遣隊を吸収・発展させ、他部隊の人員と機材を引き抜いて発足した312空である。

司令官は柴田武雄大佐で霞ヶ浦飛行場で秋水に似せたグライダー「秋草」を使って訓練を行っていた。

他に秋水からエンジンと燃料タンクと兵装を取り外した機体「秋水重滑空機」も使用している。

陸軍では1944年(昭和19年)12月に秋水実験・訓練担当部隊として「特兵隊」を発足、柏飛行場でその実験を行い、実戦部隊のほうは二式単座戦闘機「鍾馗」(キ44)を配備している飛行第70戦隊を1945年(昭和20年)7月頃に機種改編を行う予定であった。

「秋水重滑空機」は海軍に1機、「秋草」は海軍に2機陸軍に1機が導入された時点で終戦となった。

「秋草」は秋水と寸法・外形がほぼ同じの木製羽布張りのグライダーで、設計は海軍第一技術廠で行われた。

安定性・操縦性共に良好と中々好評の機体だったが、着陸には相当な衝撃が掛かった。

地方の木製機製造が可能な中小企業で一定数の量産が行われる予定になっていた。

【機体構造】

秋水はロケットエンジンを使用するという従来の戦闘機とは全く違う思想から、実に特異な形状をしている。

全翼式とまではいかないが強い後退角を持った胴体と比較して巨大な主翼を持ち、水平尾翼は付いていない。

水平尾翼の代用は主翼の補助翼が果たす。

機体自体は大変小柄で自重は 1.5tしかなかったが大量の燃料を必要とする為に燃料を満載し弾薬も積むと3.9tと2倍以上となる。

しかもその膨大な燃料は3分で使い切り、後はとにかく滑空し帰還は胴体着陸が前提…と何から何まで異例の戦闘機であった。

胴体は全ジュラルミン製で高速と巨大なGに耐える為に最も多い部分では20本の縦通材、14本の肋材を使用し、厚さ1.2mm〜1.5mmの外板を張っている。

胴体内部は全く余裕の無い配置になっており、先ず機首に無線一式、その後方にコクピット、コクピットの両脇に93L計186Lの燃料タンク、そのすぐ横に30mm機銃、コクピットの後ろに963Lという巨大な甲液用燃料タンク、そしてその燃料タンクの上部に30mm機銃弾を搭載している。

乙液用タンクは主翼内に搭載し、963L燃料タンクの後方にロケットエンジンを配置し9番肋材にエンジンを固定、他は強度を高めるために支材を張り巡らす前部胴体の構造である。

9番肋材の450mm後ろにある10番肋材が前部胴体と後部胴体の連結部となっており、エンジンの整備・点検・着脱などはここを取り外すことで行われていた。

前部胴体には通常の引き込み式降着装置を設置するスペースは無かったが、固定式では折角のスピードに悪影響が出るのでMe163と同様に油圧で作動する橇を設置した。

離陸時は専用のタイヤを付け、飛行中はタイヤを投棄し、着陸時には橇を展開して胴体着陸する。

本場ドイツのMe163においては機首部は鋼鉄で作られて爆撃機の機関銃からパイロットや機材を守る防弾版となっていたが、日本では工業技術が追い付いておらず鋼板の成形が出来なかったので、この部分はジュラルミン製とした。

又、Me163は胴部分に小型のプロペラを付けて、それで発電を行っていたのだが、日本では「そんなもの作る手間があったらさっさと量産しろ」という事で無線用蓄電池で全てを賄う事になっていた。

キャノピーは5枚の曲面ガラスをフレームで止めるという従来の戦闘機と同じ方式が取られた。

一方のMe163は一体成形のガラスを使用していたが、日本ではこれも又、技術の限界がそうさせた。

主翼は全て木製であり、恐らくは地方工場でも材料調達・加工・生産が容易という事で全木製が採用されたのだろう。

全木製の主翼は23度の後退角を用い、いかにも高速機という印象を与える。

翼幅は、5式30mm機銃搭載の為、Me163に比べ18cm増えて9.5mになっている。

翼弦長の25%の位置に主桁を、修正舵・補助翼といった各動翼前方に補助桁を設置し、さらにこれに19本のリブを通す事で秋水の主翼は構成される。

これらの骨組みは積層材や強化木で作られ外皮に合板、その上に羽布を張って表面を平坦にした。

前縁には5.7度の捻り下げが施され固定スロットが設けられている。

補助翼が水平尾翼の代わりも務めており上に22度、下に27度可動になっており、その内側には離着陸用のフラップを下ろした際に縦の振動が起きない様に安定させるフラップが付いていた。

このフラップだけは、外皮にジュラルミンが使用されていた。

この主翼付け根に五式三十粍固定機銃一型(5式30mm機銃)が搭載されている。

Me163においても30mmが使用されていたが、当時の日本には信頼できる機銃は20mmクラスまでしかなかった。

しかし相手はランカスターやモスキートはおろかB-17さえも凌駕する防御性を持つB-29である。

20mmでは威力不足と見た陸海軍と設計陣が、例え信頼性にやや問題があろうとも30mm機銃搭載を決めたのだった。

当然五式30mm機銃はMk.108機銃よりも大きい為に従来の主翼の大きさでは収まりきれず、前述のように翼幅を延長している。

【エンジン】

秋水最大の特徴が新動力「ロケットエンジン」である。

機構は複雑なジェットエンジンに比べ遥かに簡単、レシプロエンジンに比べると遥かに小型、そしてとてつもない大推力を生み出す。

まさに日本が欲していた決戦兵器にふさわしい動力だったと言えるだろう。

あの状態の日本が何が何でも実用化しようとしたのも納得の行く話である。

起動するとまずモーターが作動しポンプを動かし、分岐されて蒸気発生装置に毎分7Lのペースで甲液を送り出す。

蒸気発生装置に送り出された甲液はそこで触媒に接触、化学反応を起こし水蒸気と気体酸素になる。

水蒸気は先ほどのポンプに送られてポンプを動かす動力となり、甲乙両液をそれぞれの調量装置へと送り出す。

この際に水蒸気が多すぎると燃料の過剰供給に陥ってしまう為に甲液ポンプと蒸気発生装置の間には調圧装置が備えた。

甲乙液双方はそれぞれ調量装置を通り、一定の比率で燃焼室に送られるように調整される。

調量装置で両液は、スロットルを3段階に分けるために細分化し(1段目は甲液2本乙液1本、2段目で甲液6本乙液2本、3段目で全パイプが開放される)、甲液は12本のパイプに、乙液は6本のパイプに分割され燃焼室へ。

パイプ先端に付けられた0.2〜0.3mm程度の噴射機から霧状になった燃料を噴射する。

花瓶状になった燃焼室の中で両液が接触すると極めて激しい化学反応が起こり爆発、高温高圧の燃焼ガスは球状になっている燃焼室の中でさらに圧力を高められ、ガスは出口を求めて一気にノズルから噴出する。

これがフルスロットル状態では1,500kgという当時としては桁外れで強力な推力を生み出し、最大 888km/hの速度と高度1万mまで3分半の驚異的性能を叩き出した。

尚、燃焼室は極めて高温になる為に二重壁構造になっていて、冷却のために外壁を絶えず乙液の一部を循環させていた。

尚、当時の三菱設計技師がエンジンの構造と各主要部品の構造を解説した資料17枚が現存している。

全長 約2,500mm
全幅 約900mm
全高 約600mm
重量 180kg
最大推力 1,500kg
最小推力 100kg
比推力 180kg/薬液1kg/s
タービン回転数 14,500rpm

【兵装】

前述の通り、Me163は主翼にMk108 30mm機銃2門を搭載していたが、当時の日本には満足の行くレベルの機銃は20mmしかなかった。

だが相手がB-29なので20mmでは威力不足と見て、五式三十粍固定機銃一型(5式30mm機銃)が搭載された。

両者に共通するのは大口径機関砲を、少ない搭載弾数(Me163で200発、秋水で 100発)で運用する事で、これはロケット戦闘機という性質上、ただ一回の攻撃チャンスに大火力を叩き込み一撃離脱する事に徹したからである。

五式三十粍固定機銃一型は、大型機撃墜を目的とし、戦闘機に搭載することを前提にして出来うる限りコンパクトにまとめる様に設計された国産機銃である。

1942年(昭和17年)3月に空技支廠に対し大口径機銃研究についての照会があった。

この際に25mm、30mm、40mmといった様々な口径の機銃が新開発の候補に挙げられ、8月の要求性能決定までに何回もこれに関する会議が設けられた。

それまでの間に6月には30mmにする事が決定して一枝支廠で銃身と弾薬包の設計・試作が行われ、要求性能が出る前から一枝支廠援助の元日本特殊鋼株式会社に十七試30mm機銃の名で設計と試作を開始させた。

8月に要求性能が決定して届き、それを元に開発を進め1943年(昭和18年)7月に試作1 号が完成した。

1944年(昭和19年)には基礎地上試験を全て修了し、同社による増加試作銃を使用しての空中発射・耐寒試験などが1945年(昭和20 年)3月まで行われ、同年5月に正式採用となった。

全長2218mm、重量80kg、初速750m/s、発射速度350発/mで弾薬は重量350g、炸薬量37g。ここから分かるように発射速度が他の同口径機銃に比べ低い。

Me163に搭載されたMk108は全長105cm、重量60kg、発射速度600発/mとさらにコンパクトではあるが初速は 400〜500m/sと拳銃弾並、使用する弾丸も30x90RBの短い物である。

同じ30mmなのにも関わらずMe163搭載弾数が多いのはこの為である。

ドイツの初速の捨て方はもう開き直った感さえし、その開き直り故その他の性能は満足のいくものになり、信頼性もある。

しかし、5式 30mm機銃は従来の性能のままでコンパクトにしようとした為にどうしても皺寄せがあり、それが信頼性低下(特に給弾機構)に繋がった。

だが30mmの大口径は当ればB-29相手にも大きな破壊力を発揮出来たのは間違いないだろう。

事実月光に搭載した本銃での撃墜記録もある。

量産型銃は全試験が終わる前から既に生産されており、量産1号の完成は1944年(昭和19年)12月である。

これらは日本製鋼所横浜工場と豊川海軍工廠で主に生産されている。

肝心の日本特殊鋼株式会社はと言えば、爆撃で工場が破壊され、増加試作を作ったところで脱落していた。

最終的には2,000門強の5式30mm機銃が生産されたものと見られている。

零式艦上戦闘機後継である烈風に搭載されていたのが、この銃の最も有名なところであるが、他にも夜間戦闘機月光に個人で搭載し戦果をあげ、テスト中だったものや予定だったもの、個人で搭載したものまで含めれば雷電・天雷・銀河・彩雲・震電・電光など日本海軍最後の飛行機らに搭載されている。

しかし小さなスペースに機構を押し込んだために給弾機構などに無理があって決して信頼性は高くなかったが、問題は機銃本体よりも照準機の方である。

ロケット戦闘機は今までに無い高速で接敵する為に従来の戦闘機の照準機では対応出来ないのである。

実際にMe163が実用化された1944年(昭和19年)、Me163は従来の戦闘機と同じRevi16Bを搭載していたが、これが全く対応出来ていないと言う事で撃っても当らないというのが殆どだった。

強力な30mmも当らなければ意味が無い。

Me163が微々たる戦果しか挙げられなかったのには機体や運用の難しさ意外にもこの様な機材面の問題もあった。

【燃料】

ロケットエンジンを動かす燃料は従来のガソリンの様なものではなく、触れるだけで激しい化学反応を引き起こす劇薬であった。

ドイツでは「T液・C液」と呼ばれていた薬液は日本では「甲液・乙液」と名を改めた。

この成分はドイツから持ち帰った資料の中に有った為にそこまでの研究は必要無かった。

甲液は15℃で比重1.36、過酸化水素水80%に安定剤としてオキシキノリンやピロ燐酸ソーダなどを20%を混合したもので、主に燃焼用の酸素を供給する目的で使用される。

乙液はメタノール57%、水化ヒドラジン30%、水13%、それに銅シアン化カリを混合したもので、燃焼される側の薬品である。

甲液と混合することで凄まじい爆発を引き起こす。

特に甲液(T液)がとんでもない薬品で、無色透明で有機物に触れると極めて激しい化学反応を起こした。

保存も難しくガラス容器、若しくは錫張りの容器以外は不適、下手をすれば爆発する。

仮にゴミや虫が入った場合、大爆発を起こして大惨事となる。

対して乙液(C液)は甲液程でないにしろ実質五十歩百歩の劇薬で極めて強い腐食性を持ち、保存はガラスかエナメル若しくは電解皮膜処理を施した金属でなければ出来なかった。

エンジンの項で出た蒸気発生装置の触媒は二酸化マンガン・過マンガン酸カリ・苛性ソーダなどをセメントで約8mm角の六面体に練り固めた物である。

尚、現在プレーンズオブフェイム航空博物館に、戦後米軍に接収された秋水が現存し、展示されている。

その他国内にも、秋水が日本飛行機杉田工場の土中から掘り出され、永らく岐阜基地に放置されていたが平成9年に三菱に引渡され、13年に復元が完了し現在三菱重工の小牧南工場史料室に展示されている。

ー性能諸元ー

名称 秋水
製造 三菱重工
主任務 対重爆邀撃
全長 6.05m
全幅 9.5m
全高 2.7m
主翼面積 17.73m2
垂直尾翼面積 1.03m2
方向舵面積 0.564m2
補助翼面積 0.65×2m2
乾燥重量 1,445.1kg
最大離陸重量 3,870kg
燃料搭載量 甲液1,149L・乙液536L
最高速度 888km/h(計算) 960km/h(急降下時には音速を超える事も)
実用上昇高度 約12,000m(計算)
エンジン 特呂二号(KR-10)ロケットエンジン 推力1,500kg
固定武装 五式三十粍固定機銃一型2門(30mm大口径機関銃)
初飛行 1945年7月7日
乗員 1名
生産数 15機(終戦の為。)



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